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2011年9月4日日曜日

森達也氏『A3』の講談社ノンフィクション賞に弁護士らが抗議

 映画監督・森達也氏著『A3』(集英社インターナショナル)が今年の講談社ノンフィクション賞の受賞が決定したことについて、オウム真理教の信者家族や弁護士、研究者、宗教者、カルト脱会者などで作る「日本脱カルト協会(JSCPR)」が9月1日、講談社と同社・野間省伸社長宛に抗議書を送付。また同協会の抗議書とは別に、滝本太郎弁護士、ジャーナリストの青沼陽一郎氏と藤田庄市氏の3者も連名で抗議書を送付。9月2日にJSCPR関係者とともに共同記者会見を開きました。


■「弟子の暴走」論が批判の的に

 森達也氏はオウム真理教を内部から記録した映画『A』『A2』の監督で、現在は作家として活動しています。講談社ノンフィクション賞を受賞することになった『A3』は、昨年発刊された、同じくオウム真理教事件をテーマとした書籍です。

 これに対して9月2日、JSCPRは講談社に抗議書を送ったとして、記者会見を開きました。ここでは代表理事の西田公昭氏(立正大学心理学部対人・社会心理学科教授)と理事の山口貴士弁護士が出席したほか、JSCPRと別途抗議書を送付した滝本太郎弁護士と青沼陽一郎氏(ジャーナリスト)も共同で会見しました。JSCPRでは抗議の趣旨を、こう説明しています。

<「A3」は「弟子の暴走論」を結論づけているが、教祖の地裁判決文を初めまともな取材・分析・検討がなされていない。講談社にあってかかる賞を授けたとき、事件発覚から16年を経過している今日、残存するオウム集団として若者勧誘の助力になるなど、社会的な影響が看過しがたい>(会見要旨)

 「弟子の暴走」論とは、一連のサリン事件は教祖・麻原彰晃の指示ではなく弟子たちの暴走であったとする議論です。抗議書は、『A3』内の具体的な記述とともにその問題をこう指摘しています。

【抗議書 2011年09月01日】

                   日本脱カルト協会
                 代表理事 西田公昭

株式会社講談社  御中
代表取締役社長野間省伸  殿

(略)

2 「弟子の暴走」論に帰着する「A3」
 「A3」は、松本死刑囚にかかる刑事裁判を軸として様々な記述をしているところ、地下鉄サリン事件を中心として、ほぼ確信しているものとして「弟子の暴走論」を結論づけている(485ページ)。
 すなわち「連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」論について、僕は(直観的な)同意を表明した。二年半にわたる連載を終える今、僕のこの直観は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。勝手に暴走したわけではない、そして麻原が弟子たちの暴走を促した背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した危機意識があった」というのである。

3 司法の認定や実行犯の供述と真反対の「弟子の暴走」論
「弟子が暴走」したとすることは、松本死刑囚は刑事法上も無罪であって、
 「弟子が暴走」したとすることは、松本死刑囚は刑事法上も無罪であって、「首謀者ではない」という主張に帰結する。森氏自身も、「A3」の94ページで「弁護側は、起訴された13の事件すべての背景に『弟子の暴走』が働いているとして、被告の全面無罪を主張した。」と、無罪主張に帰結することを認めている。
 しかし、松本死刑囚が被告となっていた一連の事件に関しては、最高裁判所判決を含めすべて松本死刑囚の指示があると認定し、また松本死刑囚を「首謀者」と認定している。「首謀者」の裏付けとなる「グルと弟子」との間の服従関係は、弟子らについて鑑定をしてきた精神科医・社会心理学者らによっても認定され、また判決文にも多く示されている。
 松本死刑囚の東京地方裁判所の判決公判を傍聴しただけの森氏にあっては、直接には見聞しなかったことであろうが、これらは様々な記録から極めて容易に分かることである。なお、松本死刑囚の刑事弁護人らが被告人の有利になすべく様々な主張をなすは、職務上当然のことである。
(略)

 滝本弁護士・青沼氏・藤田氏による3者連名の抗議書も同様に、「弟子の暴走」論を特に重視しています。

■『A3』はノンフィクションじゃない?

 JSCPRは抗議書で、『A3』を「ノンフィクションと言えるのであろうか」とまで言っています。

【抗議書 2011年09月01日】

                   日本脱カルト協会
                 代表理事 西田公昭

株 式 会 社 講 談 社  御中
代表取締役社長野間省伸  殿

(略)
5 刑事事件・裁判と「ノンフィクション」について。
 刑事事件や裁判に関する事柄の著作でも、優秀な「ノンフィクション」が成立することはもちろんある。確定判決についてさえも判決の信用性、説得力のなさや証拠との矛盾、またさまざまな証拠の別の見方、新たな証拠の呈示・説明をするなどして、賞に値することも十分にあろう。
 したがって、「A3」特にその中の弟子の暴走論についても、ノンフィクションとして十分な報告、分析をふまえてなされていて質が高ければ、多くの確定判決とは矛盾するが、1つの視点、考え方を示したものとして、授賞に値することも、論理上はあり得なくはない。
 しかし、「A3」がこれに達していないこと明らかである。

6 教祖の指示など確定判決を検討・記述せず、考察していない「A3」
 すなわち森氏は、確定している2004年2月27日の東京地裁判決文に示されている松本死刑囚の関与さえ記述せず、また考慮もしていない。そもそも森氏は、531ページにものぼる「A3」の中で、27ページの1カ所のみにてこの判決文のごくごく一部を紹介したにとどまるのであって、実に驚くべきことである。
 松本死刑囚の地下鉄サリン事件における指示は、3月18日未明のいわゆるリムジン謀議を別としても、具体的に認定されているのは、別紙1のとおりである。
 その他の事件についても松本死刑囚の指示などあると具体的に認定されているのに、森氏はこれをほとんど書いておらず、「弟子の暴走論」の矛盾点を覆い隠している。具体的には、別紙2のとおりである。
 これらを確認、分析そして記述しないままの「A3」が、どうしてノンフィクションと言えるのであろうか。森氏の意図的なものでないとするならば、取材の意欲と取材力、何より真摯な態度が圧倒的に不足していることを示している。

(※別紙については末尾の会見資料に掲載)

 さらにJSCPRは抗議書で、『A3』を<いわば先入見を記述しているに過ぎない>と評しています。

 滝本弁護士ら3者連名の抗議書も同様です。

【抗議書 2011年09月01日】

                         青沼陽一郎
                         滝本太郎
                         藤田庄市
                         (50音順)

株式会社講談社  御中
代表取締役社長野間省伸  殿

(略)
 講談社ノンフィクション賞は、受賞基準といったものが事前に決まっていないようであるが、ノンフィクションは、「創作をまじえない、事実そのままのもの。記録文学、紀行文、記録映画など」であるから(講談社『現代実用辞典』第二版2010年2月1日第一七版)、作品である以上創造的な再現描写や主観部分が入ることはあり得ても、事実を歪曲させてまで個人の見解を披露している創作については「ノンフィクション」に値しないことも、また明らかであろう。
(略)

 『A3』、<事実を歪曲させてまで個人の見解を披露している創作>とまで言われています。

 こちらの抗議書は、ほかにも様々な背景に疑義を提示しています。森氏が『A3』の中で持論を展開する際に、ほかの文献等からの引用が恣意的である点。映画『A』は、オウム真理教が全面的に撮影に協力し、信者が作った「映画A推進委員会」によって上映普及が行われた点。森氏が『A』において「信仰のためには人を殺めても構わない」と語る信者のインタビューを撮影しておきながら、「普通の若者として撮りたかった」ためにそのシーンをカットしたと指摘されている点(雑誌月刊サイゾー2002年11月号で佐川一政氏が指摘)。こうした『A』のドキュメンタリーとしての瑕疵について『A3』で説明していない点。講談社ノンフィクション賞の選者の中に、オウム真理教の教義の成立や勢力拡大に寄与した中沢新一氏がいる点て等々です。

 特に中沢新一氏が授賞に関与している点については、抗議書は<いったい、これがまともな「ノンフィクション賞」の授与であろうか。>と、強く非難しています。

■JSCPR西田代表「出版は自由、表彰が問題」、森氏「反論する気になれない」

 いずれの抗議も、『A3』が出版されたことへの抗議ではありません。講談社が表彰して権威付けすることに問題がある、という立場をとっています。JSCPRは抗議書で、こう書いています。

<書籍は、単に一般に出版されるだけでならば、所詮一筆者の論述にすぎないとして格別の影響力を持たないことがある。
 しかし、権威を備えておられる貴「講談社ノンフィクション賞」を受賞したとなると、後世に残り得るものとして、多くの人が関心を持つことになる。後世、相当の信頼性があるものと思われる蓋然性もある。>(抗議書)

 JSCPR代表理事の西田公昭氏は、本紙の取材に対してこう語りました。

「本を出すことは自由ですし、それだけなら抗議する必要は感じませんでした。事実、昨年『A3』が発刊されても、講談社ノンフィクション賞の話が出るまでは、JSCPRで抗議文を出そうという議論が出たことはありません。しかし日本を代表する大出版社がお墨付きを与えるとなれば、それは問題がある。いま、オウム真理教事件を知らない人々が大人になってきている。そういう人がオウム事件について勉強しようと思ったとき、すでに発表されている情報を含めた検討をしていない“弟子の暴走”論が影響しかねない。そこでJSCPRとしては、後世に誤った影響を残すのはまずいのではないかと考えました」(西田氏)

 これに対して、森達也氏は本紙の取材に対してこう語ります。

「僕が『A3』で展開した“弟子の暴走”論は、麻原一審弁護団の主張とは微妙に異なり、麻原と側近たちとの相互作用を前提に置いた暴走論です。無罪だなどと主張するつもりもないし、そもそもそんなことは書いていません。面会した信者たちが『暴走論』に違和感を表明したこともすべて書いています。麻原が水俣病かどうかとか他の指摘も含め、読んでいないのか、あるいは恣意的に誤読しているのかはわからないけれど、このレベルでは反論する気にもなれないです。
抗議声明を出したと最初に聞いたときは、最も重要な論点である麻原の精神状態についての論議を交わすことができるのでは、と期待したけれど、そんな論点は抗議書のどこにもない。まあでも、こうして少しでも話題になることで『A3』を手に取る人も増えるでしょうし、これを機会に社会全般でオウムや麻原法廷についての議論や考察が始まるならば、僕としては大歓迎です」(森氏)

◇会見資料全文
会見要旨
JSCPR抗議書
JSCPR抗議書別紙
3者連名抗議書

13 件のコメント:

  1. まともにA3を読んだとは思えない抗議文の内容。そもそも引用している中にも麻原が深いかかわりを持っていることは明らかに指摘しており、「弟子の暴走論」というレッテルでそれを麻原が無関係であるかのように見せているのは実際は抗議している側。
    Aシリーズはオウムを正当化しているものではなく、カルト批判で多数派側に回る我々に深い自省と慎重さを促すものである。その意味でこのサイトにとっても、その愛読者にとっても非常に貴重な提言がされていて、必見、必読だと思う。カルト批判が常に正しいとは限らない。

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  2. >森氏「反論する気になれない」

    これにはがっかりですね。自分に都合の良い論点でしか議論が出来なくなってしまっているようです。

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  3. >(略)…まあでも、こうして少しでも話題になることで『A3』を手に取る人も増えるでしょうし、これを機会に社会全般でオウムや麻原法廷についての議論や考察が始まるならば、僕としては大歓迎です」(森氏)



    ノンフィクションを主張するのではなく、話題性が出ればよい、という感覚が疑問である。

    それでオウム事件が盛り上がって良いとおもっているのは作者だけで、本当の被害者はどう思うのか考えていない。

    読む気にはなりません。

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  4. > Aシリーズはオウムを正当化しているものではなく、

     今回の抗議って、「Aシリーズはオウムを正当化している」という趣旨の抗議ではないし、「オウムを正当化している」というような表現すら抗議書の中に出てきてないですよ。それこそ、抗議書の内容をまともに読んでいない意見に見えますが。

    > カルト批判で多数派側に回る我々に深い自省と慎重さを促すものである。

     ぼくは、「多数派」に対する森氏の問題提起を無価値とは思いません。でも、「多数派」に誤りがあるということと、それを批判する「少数派」が正しいかどうかとは、別問題。

    > カルト批判が常に正しいとは限らない。

     そのとおり。だからといって、カルト批判を批判する人が常に正しいとも限らない。

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  5. これは講談社の方に理があると思うなあ。
    ノンフィクションが裁判所の事実認定を重用しするかどうかはさして重大な問題ではないし、まして賞の選考に社会的影響を考慮しなければならないわけでもない。
    どちらかといえば、森氏に直接に事実関係の誤りについて糺すべき筋の話ではないかと思う。

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  6. 読んでみないことにはなんとも言えないな。

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  7. > 今回の抗議って、「Aシリーズはオウムを正当化している」という趣旨の抗議ではない

    その通りです。正当化、という表現には語弊がありました。しかし無罪主張につながる、とか若者への影響云々という点においては、オウムの(とりわけ麻原の)人間を明白な非として扱わないことへの批判があるように思います。実際に「事実と異なる」という指摘があまりにも少ないのではないでしょうか? 裁判で決定されたもののみが事実とは言えないはずです。むしろ判決文ではなくてそれが出されるまでの経緯や、それ自体の矛盾点を指摘するものなので、判決と違うことを書いている、という批判はあたらないのではないでしょうか?

    >ぼくは、「多数派」に対する森氏の問題提起を無価値とは思いません。


    それが理解されるのならば森氏は満足するのではないでしょうか。少数派が正しいなどと森氏も私も一言も述べていません。疑問を持つこと自体の重要性を強く主張しています。


    すでにコメントで指摘されている方が居るように、どの事実が具体的に問題となるかを森氏に糾さない限り水掛論に終わるでしょう。

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  8. 正当化、は語弊がありました。ただ無罪主張につながる、という批判は「麻原は何があっても有罪でなければならない」という先入観に基づいたものであるし、事実に基づいていない、と批判するときに「事実」とは裁判で認定された事実に過ぎません。また「社会的影響」に関しても、社会的に良くない、とする理由はオウムが「悪」「非」として絶対的に描かれていないからではないでしょうか?


    そして森氏も私も少数派が正しい、との主張は一言も行っていません。多数派への疑問を呈しているだけです。「だからといって少数派が正しいとは限らない」との主張は、まるで少数派が正しいと森氏や私が主張しているかのように読める点でミスリーディングではないでしょうか。



    >話題性が出ればよい、という感覚が疑問である。

    彼の作品を読めばわかりますが、そんな感覚を彼は持ち合わせていませんし、被害者の会への取材もしっかり行っています。
    やはりコメントにもあるように、もっと具体的にどの事実が違っていて、本当はどういう事実であるのかを議論すべきでしょう。

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  9. 自分のコメントが削除されているように思うのですが、気のせいでしょうか?
    できれば確認お願いします。

    返信削除
  10.  うーん。『A3』を読んでない人も多いだろうと思ったので、具体的に論点をわかってもらうために抗議書の全文も掲載したんですが、森氏に擁護的あるいは抗議に対して批判的なコメントは、なぜか抗議書の内容を踏まえていないですね。抗議書の方はすぐに無料で全文を読めるんですよ。是非を論じるなら、せめて抗議書くらいは正確に読んだ上で論じるのが筋じゃないですか?

    > これは講談社の方に理があると思うなあ。
    > ノンフィクションが裁判所の事実認定を重用しするか
    > どうかはさして重大な問題ではないし、

     その点は抗議書に書いてありますね。

    <刑事事件や裁判に関する事柄の著作でも、優秀な「ノンフィクション」が成立することはもちろんある。確定判決についてさえも判決の信用性、説得力のなさや証拠との矛盾、またさまざまな証拠の別の見方、新たな証拠の呈示・説明をするなどして、賞に値することも十分にあろう。>(JSCPRの抗議書)

    <松本死刑囚の地下鉄サリン事件における指示は、3月18日未明のいわゆるリムジン謀議を別としても、具体的に認定されているのは、別紙1のとおりである。
     その他の事件についても松本死刑囚の指示などあると具体的に認定されているのに、森氏はこれをほとんど書いておらず、「弟子の暴走論」の矛盾点を覆い隠している。具体的には、別紙2のとおりである。
     これらを確認、分析そして記述しないままの「A3」が、どうしてノンフィクションと言えるのであろうか。森氏の意図的なものでないとするならば、取材の意欲と取材力、何より真摯な態度が圧倒的に不足していることを示している。>

     裁判所の認定に沿うべきだと主張しているのではありません。公の資料で示されていることについて充分な分析を加えないまま、それと矛盾する持論を読者に提示するという方法論を問題視しています。抗議書を読めばわかることです。

    > まして賞の選考に社会的影響を考慮しなければなら
    > ないわけでもない。

     それはなかなか斬新な意見ですね。表彰は事実上、出版社が世の中に特定の本を推薦するわけですから、ぼくはむしろ社会的影響を意図して行うものだとばかり思っていました。社会的影響を考慮しなくていいなら、講談社はどんなに反社会的な出版物にも講談社ノンフィクション賞与えたい放題ですね。

    > オウムの(とりわけ麻原の)人間を明白な非として
    > 扱わないことへの批判があるように思います。

     それはあなたの解釈であって、抗議文にそんな主張は書かれていません。抗議書は、麻原の指示があったことをスルーするのはおかしいと指摘していますが、麻原の人間性を否定せよとは主張していません。事実と解釈をしっかり区別して、事実を検討することで解釈に至るというプロセスを踏まないと、その議論は『A3』と同レベルです。

     抗議の趣旨を要約するなら、「こういう意見を書け」と抗議しているのではなく、「持論を書くなら書くで、読者をミスリードするようなやり方すんな。講談社はそんなもんに賞をやるな」という話でしょう。しかも抗議書の文面や西田氏のコメントは、講談社が賞を与えさえしなければ、ぶっちゃけどうでもいい本だった、という態度っぽい。異論の存在や書籍の出版自体は否定していない。

    > 実際に「事実と異なる」という指摘があまりにも少
    > ないのではないでしょうか?

     抗議文は、裁判で明らかになっている事実(森氏の主張と食い違う事実)を提示していますよ。

    > 判決と違うことを書いている、という批判はあたら
    > ないのではないでしょうか?

     すでに書きましたが、判決と違うからダメだではなく、裁判で明らかになった事実と食い違う持論を展開するなら、もっと丁寧に検証しろ、という文脈ですよ。その作業が不足したまま独自の解釈だけ見せるのはノンフィクションじゃなくて創作だ、という抗議文に読めますが。

    > それが理解されるのならば森氏は満足するのではないでしょうか。

     森氏が満足するかどうかは、どうでもいいです。我々は、自分が良質なノンフィクションを読みたいとか、何かを知りたい・考えたいという欲求のために本を読み評論するんです。それに満足するかどうかは、森氏が勝手に決めていればいいこと。

    > 少数派が正しいなどと森氏も私も一言も述べていません。

     森氏を擁護する文脈で「カルト批判で多数派側に回る我々に深い自省と慎重さを促すものである」と書かれていました。抗議文を読んでいないように見える内容の意見で、多数派に対する森氏の価値を持ち出されていたので、多数派を批判する少数派であればしれだけで常に価値があると言いたいのかと思いました。

     そういう意図でないなら、多数派への問題提起として森氏に価値があるかないかを持ち出す必要ないと思います。今回の抗議で指摘されている具体的な論点と関係ないですから。総体的に価値がある人でも、間違っていれば批判されるだろうし、問題提起の内容や方法論が間違っていれば、総体的価値はむしろ下がる。だから検討すべきは森氏の総体的価値ではなく、批判されたポイントについて、抗議した側とされた側のどちらの言い分に分があるかでしょう。

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  11. > 自分のコメントが削除されているように思うのですが、
    > 気のせいでしょうか?
    > できれば確認お願いします。

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  12. 講談社もこの問題をスルーしてほしくない。
    今後も講談社がどうでるか注目していきたいし、やや日に掲載されるのを楽しみにしていきたい。


    カルトとはなにか?

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  13. カルト------口の上手い人間、声の大きい人間が、フィクションをノンフィクションだと言い張り、それがまかり通る世界。

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