【日経BPネット 2010年04月16日】オウム『A』『放送禁止歌』の森達也さんに聞く「現場ってなんですか? 編集ってなんですか?」(前編)
── 森さんが映画を撮ろうと思ったきっかけはなんでしょうか。
森 もともと僕はフリーランスのディレクターだったんです。加藤さんはいまおいくつですか?
── 22歳です。
森 22歳ってことは95年当時は7歳ですね。
── そうですね。
森 オウムの騒動があったことは覚えている?。
── はい。当時テレビですごい報道していたのでそれが記憶に残っていますね。
森 オウムに対してどんな印象を持っていましたか?
── 怖くて悪い人たちなんだなあって思っていたのを覚えています。
森 そういう報道ばかりだったからね。もちろん実際に犯罪は犯罪だから、ある程度は仕方がない。でもその犯罪の原因を、狂暴とか邪悪とか洗脳とか、そういうわかりやすい言葉にメディアは収れんしすぎてしまった。当時は一年間くらい朝から晩まで、全メディアがオウム漬けで、特番だらけだったんです。僕は自分で企画を立てて、それを局にプレゼンテーションして、通ったら番組を作るというスタンスなんですけど、あの時期はオウム以外の企画が通らなかった。
── なんでもいいからオウム関係の企画をもってこいという?
森 そう、オウム以外だと仕事にならなかった、それがきっかけかな。やりたくてやったわけじゃないんです。
── 興味があったわけじゃなかったんですね。
森 うん。やらないことには飯が食えない、フリーランスですから。
さすがプロです。何をおいてもまずカネのため、です。本紙主筆もいちおうプロのライターですから、「やや日刊カルト新聞」で原稿料ゼロの文章を書いている場合ではないのかもしれません。
『A』では、警官がオウム信者の前でわざと転んで、「突き飛ばされた!」とか言ってオウム信者を公務執行妨害で逮捕するシーンがあります。インタビューでも、その点が言及されます。
【日経BPネット 2010年04月16日】オウム『A』『放送禁止歌』の森達也さんに聞く「現場ってなんですか? 編集ってなんですか?」(前編)
── その、不当逮捕をカメラに収めた瞬間どう思いました?
森 ひどいことするなあって。同時に、警察はなんでカメラを制止しないでこれを撮らせるのかが不思議でした。
── 向こうが森さんのことをマスコミだと思っていたからですか?
森 たぶん。
── カメラに撮られても問題ないと思っていたのでしょうか?
森 「A」公開数日後の映画館で、映画を見終わった男性グループが「あれくらいのシーンなら俺たちも撮ったことあるぞ」って言いながら出てきたことがある。呼び止めて話を聴いたら、TBSの報道スタッフでした。TBSだけじゃないです。日本テレビもフジテレビもNHKも、あるいは読売も朝日も毎日も、要するにほとんどのマスメディアは、あんな場面を毎日のように目撃していた。撮っていた。
── 撮っているのに放送もしないと。
森 おそらく警察も、撮られたところで放送はしないから大丈夫だろうって思ったんでしょう。当時の新聞を見ればわかるけど、カッターナイフを持っていたオウム信者逮捕とか。駐車場に立ち入ったから逮捕とか。ごく普通に記事になっていました。だれもそれをおかしいとは言わなかった。
大手マスコミと権力の癒着ぶりは、やっぱりすごいですね。で、一方の森監督自身に対する評価に、話は移ります。
【日経BPネット 2010年04月16日】オウム『A』『放送禁止歌』の森達也さんに聞く「現場ってなんですか? 編集ってなんですか?」(前編)
── 「A」「A2」を公開したときに批判、批評はどのくらいありましたか?
森 全く無かったわけじゃないですけど基本的に黙殺ですね。もっと反論というか、バッシングが来るかと思っていたけどほとんど来ない。見た人はそれなりに評価してくれるんだけれどね。
── その中で印象的だった言葉とかありますか?
森 「A」はオウムのPR映画だとかオウムから資金をもらっているとか、そんなことを言ったり書いたりする人は何人かいました。批評はまったくかまわない。でもせめて見てから批評してほしい。
── 見てないのに批評されたんですか。
森 明らかにそういう人もいました。
── そういう人は多かったですか?
森 オウムを断罪していないというだけで駄目と言う人はいっぱいいましたからね。
少なくとも私のまわりでの『A』に対する評価は、オウムを断罪していないからダメだというのではなく、内容が一面的で素材不足であるという意見の方が主流だった記憶があります。『A』は、オウム信者がいい人っぽいという側面を映しておいて、その“いい人”さがどういうことなのか(あるいは、それがどういうわけで事件になっちゃったのか)に思いをはせる要素がない映画でした。当時はハリー・ポッターみたいな顔をしていた荒木浩氏(当時オウム真理教広報部副部長)がかわいいなとか、彼らをいじめる近隣住民は怖いな、というだけの映画。言い換えるなら、「オウムを撮ったけどオウム問題を撮れていない」映画です。
ちなみに私は、『A』の中では、前述の警官の「不当逮捕」のシーンがいちばん好きです。バックに『グッドナイト・ベイビー』(1968年、キングトーンズ)のカバー曲を流すという
『A』を劇場で2回見て、2回ともこのシーンで笑いました。私と一緒に見に行った女友達も笑っていました。彼女はもう人妻になって、遠くの町できっと幸せに暮らしています。いつか君と行った『A』がまた来たら、君も見るだろうか。というわけで、いちご白書ならぬ「『A』をもう一度」となるのかというと、もうないみたいです。
【日経BPネット 2010年04月16日】オウム『A』『放送禁止歌』の森達也さんに聞く「現場ってなんですか? 編集ってなんですか?」(前編)
── いま「A3」を撮ったら海外での評価は高くなるんでしょうか?
森 どうだろう。作品の内容にもよりますけどね。ただ、いまとなってはもうオウムを撮ってもしょうがないですね。「A2」を撮った後に「A3」という構想があったんだけど、そのとき撮っていればまた違ったものになっていたかもしれない。いま撮るんだったら多分、オウムじゃないでしょうね。
── 何を撮りますか?
森 自分を撮るかな。
── 森さん自身をってことですか?
森 うん。僕にとってのオウムは何かというのを。オウムそのものを撮ってもしょうがないですよ。もはやあまり意味がないし、映像をやるなら環境を整備しないといけないので、いまはそのゆとりがない状態なんです。
── ゆとりが出来ればいつでも作れる?
森 出来ればね。出来ればやっぱりやりたいけど……。さっきも言ったように「A」も「A2」も赤字です。「A3」だってたぶん赤字でしょう。スポンサーなんて絶対に付かないし。……僕の本が50万部くらい売れてくれれば(笑)。そしたら一本映画を撮りますよ。
要するに、カネにならないからオウムを撮ってもしょうがないと。この人の関心は最初から最後まで「オウム問題」ではなくカネカネカネ……。
オウム真理教の“戦後処理”に失敗した日本社会では、いまもオウムの残党が組織を維持し、そのうちのひとつは国を訴えたり警視庁に抗議文を送りつけたり。そしてサリン事件被害者に対する国の救済はようやく始まったばかりで、いまもオウムに入信したままの子どもを待つ「オウム真理教家族の会」も活動を続けています(というか続けざるを得ない)。そういう中で、まがりなりにもオウムを取材してきた人間にインタビューでこういう物言いをされると、とても悲しい気分になります。
森監督は、二度とオウムを撮るべきではないことは言うまでもなく、「オウムを撮った監督」という肩書で仕事をするのもやめた方がいいと思います。オウムネタでカネ儲けするのに失敗した映像下請け業者が「オウムを撮った監督」という肩書で人前に出てきて、「興味はなかった」「オウムを撮ってもしょうがない」と言い放つ。いまなおオウム問題に関わっている人々に対して、あまりにひどい仕打ちではないでしょうか。
興味ないなら語らなきゃいいのに。あ、でも、カネになるときは興味なくても語りますよってことなのでしょうか。
森監督のインタビューは、カネになる仕事はしてもカネのためだけに仕事をするような人間になりたくないと、改めて自分を戒めるきっかけになりました。森監督と、この妙なインタビューを企画した日経BP、ありがとう。そして、森監督にインタビューした「ゆとり世代」の駆け出しフリーライターさんには、こんなオトナにならないよう気を付けてもらいたいなと思いました。
9 コメント:
ずいぶん酷いものなのに、森達也という人物のオウム問題の取り上げ方をしっかり指摘するメディアは少ないように感じます。せいぜい、古参のインターネット・オウムウオッチャー(オウマー)の西村新人類氏が「剽窃ゲロ豚」と痛罵するくらいで。
メディアのこの人物の持ち上げ方に違和感を感じていたので、とても興味深く、頷きながら拝読しました。
> オウムネタでカネ儲けするのに失敗した映像下請け業者が「オウムを撮った監督」という肩書で人前に出てきて、「興味はなかった」「オウムを撮ってもしょうがない」と言い放つ。
痛快ですね。
私は現役オウムでも元オウムでもありませんが、
オウム批難一辺倒の世間の風潮には辟易していたので、
AとかA2みたいなタイプの作品は新鮮で興味深かったですよ。
確かに、当時、信者を逮捕するのにほとんどいちゃもん的なものもありましたが、
全部で何件何人の殺人、殺人未遂事件を引き起こしたか・・
(しかも内容があまりにひどい)と考えると、
「オウム非難一辺倒に辟易」とは、とても言えないと思います。
オウムの起こした事件がひどいのは全く同意ですが、
狂気の集団としてのオウムばかりが報道される中、
意外と和気藹々としているオウムの日常を映したのは
カルトというものをよりリアルに理解するために
大切な視点の1つだったと私は感じていますよ。
他のカルトだったら、中の人が幸せだったら、それもありかと思えますけど。
あの当時のオウムは思えませんね。
あの事件は何だったのか、それぞれが考えることが大事なのではないでしょうか。森さんがあのドキュメンタリーを撮ることを決めたのもマスコミの考えに社会が染まっていることに危機感を覚えたからなのでは?と思いました。それはオウムの事件に限らず、ほかの事件、戦争にも言えるのでは。
>内容が一面的で素材不足であるという意見の方が主流だった記憶があります
>その“いい人”さがどういうことなのか(あるいは、それがどういうわけで事件になっちゃったのか)に思いをはせる要素がない映画でした。
>言い換えるなら、「オウムを撮ったけどオウム問題を撮れていない」映画です。
>要するに、カネにならないからオウムを撮ってもしょうがないと。この人の関心は最初から最後まで「オウム問題」ではなくカネカネカネ……。
批判対象の人の作品に「素材不足」を指摘している筆者の言う「要するに…」の論拠が、この日経BPの記事たったひとつですか。そのていどで、
>この人の関心は最初から最後まで「オウム問題」ではなくカネカネカネ……
と書けるわけですか。「いちおうプロのライター」のお仕事って、そういうものですか。
>いまもオウムに入信したままの子どもを待つ「オウム真理教家族の会」も活動を続けています(というか続けざるを得ない)。そういう中で、まがりなりにもオウムを取材してきた人間にインタビューでこういう物言いをされると、とても悲しい気分になります。
彼の物言いが不可解なら、「まがりなりにも森氏を取材し」て彼の真意をくわしく尋ねればいいではないですか。あなたも「いちおうプロのライター」なんですから。
>内容が一面的で素材不足であるという意見の方が主流だった記憶があります
このエントリがまさにそうですね。
>森監督のインタビューは、カネになる仕事はしてもカネのためだけに仕事をするような人間になりたくないと、改めて自分を戒めるきっかけになりました。
私も、このエントリーを読んで、カネにならないからといって杜撰な文章を書いてもよいなどと血迷うことのないようにすべしとあらためて自分を戒めました。「いちおうプロのライター」として「ヤル気のなさを全力でアピール」なさっておられますね。ほんとうにありがとうございました。
数十分前に私が投稿したコメントはすぐに削除されたようですね。
私の言葉遣いが汚かったから削除なさったのなら、もっと清潔な表現で書きなおして投稿して差し上げますよ。
私は芸がありませんのでね、作文力のないふりをするのがけっこう下手なんですよ、こう見えても。
何度も説明していることですが、このブログのコメント欄にはスパムフィルターがあって、コメントを振り分けてしまいます。フィルターに引っかかったコメントはこちらで手動で公開作業をします。そのため公開までに時間差が出ることがあります。
削除などしていません。どんなに見苦しい発言でもバカなコメントでも、とりあえず検閲はしないのが当サイトの方針です。
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