2010年11月16日火曜日

【映画評】アーミッシュ~禁欲教徒が快楽を試す時~

アーミッシュ~禁欲教徒が快楽を試す時~
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 ネット上の映画祭「松嶋×町山 未公開映画祭」が11/17から始まる。
 この映画祭、日本未公開作品39本が映画祭期間中に1本500円で見れるというもの。政治、宗教、人種等、様々なジャンルのドキュメンタリ映画がラインナップされている。
 今回、記者はキリスト教の一派であるアーミッシュの若者を追ったドキュメンタリ「アーミッシュ~禁欲教徒が快楽を試す時~」を鑑賞した。


 「アーミッシュとはどの様な人たちだろう?」そんな興味から、この映画を見てみた。
 記者が持っていたアーミッシュのイメージは、閉鎖されたコミュニティで現代文明を拒否して共同生活をする人、というものだった。
 この映画に出てくるアーミッシュの生活は、確かにそのようなもので、車は持たず馬車や自転車で移動しテレビも無く家には電線も引かれていなかったが、ガスレンジや冷蔵庫はキッチンにあり、食器洗い用の合成洗剤もシンクのそばに並んでいるのが見えた。ある程度の折り合いはつけているようである。Wikipediaによれば、風車や水車で発電し蓄電池に電気を蓄えて使うようである。

 この映画は、アーミッシュの子供たちが16歳になると迎える、「ルムシュプリンガ」という期間の子供たちを追っている。
 基本的にアーミッシュの生活は俗世とは極力交わらず、酒、タバコ、音楽、セックスなどの快楽は戒律によって禁止されているが、このルムシュプリンガの期間だけは全てが許され、コミュニティの外で暮らす事も認められる。ルムシュプリンガを迎えると、抑圧から解き放たれて自由になる。厳しい戒律もない。子供たちは車に乗り、酒を飲み、タバコを吸い、パーティを楽しみ、デートをし、セックスをし、ドラッグにまで手を出すものもいる。まさに、Sex, Drugs & Rock'n'Roll。絵に描いたような堕落っぷりだ。
 今まで俗世から隔離された世界で純粋培養で育てられた子供たちが、刺激の多い俗世で何を知り、何を選択するのだろうか。ルムシュプリンガの期間の間に、子供たちは洗礼を受けてコミュニティの一員になるか、コミュニティから離れ俗世で生きるかを、自らの意思で選択しなければならない。
 映画には、そんな彼らの行動が赤裸々に映し出される。自分で覚せい剤を楽しむカネを稼ぐために覚せい剤の売人になる少年は、とても厳しい戒律を守って生きてきた人には見えない。アーミッシュではない女の子と付き合って、仲間とボーリングを楽しむ姿は、どこにでもいる普通の少年であるし、仕入れた覚せい剤を小分けしている姿にも悪びれた様子も無い。そんな俗世の快楽を楽しむ彼も、インタビューには「洗礼を受けるつもり」と答えている。親のようにアーミッシュとして生きるのだ、と。

 抑圧された生活から解き放たれたとき、事の大小はあるにしても、誰でも一時的に羽目を外すという事はあると思う。
 校則の厳しい学校から卒業したとき、親の元を離れて一人暮らしをしたときなど、きっかけは様々だが、自由を謳歌しようとするのは当然の事だ。
 俗世に解き放たれたアーミッシュの子供たちも同じであろう。刺激的な世界が楽しく無いわけが無い。俗世に浸りきった記者の考えだと、自由の少ない文明の恩恵も受けれないアーミッシュの生活よりも、刺激的な俗世を選択すると思うのだが、ルムシュプリンガの間に9割の子供たちが洗礼を受ける事を決めるという。その理由は映画の中だけではわからなかったが、それが彼らにとって当たり前の選択なのかもしれない。300年もの間(アメリカへの移民は1720年とされる)、コミュニティが存続しているのは、それなりに訳があるのだろう。

 生まれたときから信仰が中心のコミュニティに暮らしていたので、信仰心が無いわけは無いと思うが、映画の中では、彼らの信仰についての考えを語る場面や祈りを捧げる場面は一切出てこない。演出上の意図でそのようなシーンを省いたのか、ルムシュプリンガの期間の子供たちは信仰を忘れるほどに楽しむのか、どちらなのだろうか。あるいは、生活に密着しすぎている為に、表立って出てこないのか。後に彼らが洗礼を受けるか否かを選択する理由を知る上でも、その部分を少しでも掘り下げて欲しかったとは思う。

1 コメント:

オホーツク海岸の論客 さんのコメント...

見る価値がある映画ですね。

覚せい剤の売人になる少年が出てしまうのはやりきれないものがある。でも、この映画はこういう現実があるという事を知らせてくれるから見る価値がある。

ところで、映画作りは監督の人柄とか宗教に対する考えも影響してますよね……