2010年3月30日火曜日

【書評】元オウム代表がつづる「総括」=『革命か戦争か』(サイゾー)

 オウム真理教による地下鉄サリン事件から15年にあたる3月20日付で、オウムの後身であるアレフの元代表・野田成人氏が『革命か戦争か オウムはグローバル資本主義への警鐘だった』(サイゾー、1300円)を出版しました。サリン事件以前からのオウム内部での体験談、総括、そして貧困問題に取り組む現在の彼の哲学をつづった一冊です。

■「オウム」のおさらい

 野田氏は、「ノーベル賞学者」を目指して東京大学理科Ⅰ類に進みながら、才能の限界を感じてオウムに惹かれていったそうです。教団内ではレールガン等の武器の開発研究にかかわった野田氏でしたが、(実用性のない武器だったからか)刑事罰に問われることなく、教祖以下、主だった幹部やサリン事件等の実行犯らが逮捕された後も教団に残ります。

 サリン事件後、野田氏は97~99年まで実質的に教団を切り盛りしていました。この間、教団は、事件を教団によるものとは認めず、被害者への謝罪や賠償も行いませんでした。この点について野田氏は、99年にハルマゲドン(最終戦争)が起こるとした教祖・麻原彰晃の予言をひきずっていたからだとしています。しかし99年になっても何もおこらず、獄中から被害者への賠償を提案していたという上祐氏が出所したことで、教団は被害者への謝罪と賠償を行いました。しかし、やがて麻原の妻や娘が上祐氏に対抗して麻原回帰色を強め、上祐氏の軟禁、教団からの離脱、「ひかりの輪」設立、野田氏のアレフ代表就任、と進みます。結局、野田氏は、ブログで「麻原を処刑せよ」を書いたことが引き金となって、教団を追われました。

 本書の前半では、こうした経緯が一通り順を追って説明されています。オウム信者たちの精神構造や、オウムの内情は実はけっこう行き当たりばったりでしょうもない面があったことなど、未曾有の大事件を起こしながら現在も存続している教団の内幕を知ることができます。

■グルイズム下での思考停止

 オウムを「総括」する章で野田氏が、オウムがテロ組織化した理由として指摘しているのは、修業の手段であるはずのグルイズムが自己目的化し、麻原が作り上げた教団システムの中で信者が思考停止に陥っていたという点です。これは非常に大雑把な説明ですが、本書ではもっと丁寧に説明されています。

 オウムの構造を客観的に考える上ではとても参考になります。ところが一方で、この章が野田氏個人の総括という性格をほとんど帯びていない点が気になりました。

 もちろん、総括の章以前の部分で野田氏はオウムでの体験を振り返り整理して記述していますし、総括の章も含めて再三、謝罪や後悔の言葉を記しています。野田氏自身も書いていますが、あれほどの事件では、被害者や遺族を納得させられるような謝罪や総括など、そもそも不可能かもしれません。しかしそうだとしても、「教団の責任」というくくりではなく野田成人という一人の人間が、どのようにして何を誤り、何を悔いているのかというパーソナルなまとめが、もう少しあってもよかったのではないかと思いました。

 理系エリートの挫折と精神世界への傾倒、そしてオウムへの入信という道のりは、オウム周辺では「よくあるパターン」というイメージがあるので、読んでいて強い違和感はありません。しかし、なぜそこで麻原の著書に惹かれたのか、なぜオウムだったのか(たまたまだったのか、心の中では何か必然性があったのか)という辺りはいまいち見えてきませんでした。また、野田氏が麻原の命令で着手していた武器の開発研究のしょうもなさや、麻原の妻らによる教団運営の無茶苦茶ぶりが書かれているのに、「なぜそこで辞めずに続けていたのか」「そんな生活の中に、どんな楽しみややりがいがあったのか」という辺りは、あまり丁寧に描かれていません。

 上祐氏ほどではないにしろ、やや評論家的視点でオウムを総括しており、野田氏の人間味が感じられないといった印象でした。

■グローバル資本主義批判

 しかしこうした点に不満を感じるのは、私が「オウム問題」に興味を持っている人間だからでしょう。しかしそもそも野田氏が本書を書いた理由は、おそらく、オウムや自分のオウム体験の総括をするためだけではないのだろうと思います。本書の後半は、グローバル資本主義への批判であり、オウムを通じて野田氏が培った「哲学」と資本主義批判との連続性を説明する内容です。現在、野田氏は、ホームレスなどに生活保護申請の手伝いをしたり住居を提供したりする活動に取り組んでおり、その背景として彼が抱いている哲学や思考をまとめたのが、本書の後半です。

 ここでは、オウム信者たちが教団のシステムの中で思考停止していたのと同じように、我々一般の人々も資本主義というシステムの中で思考停止しているのではないか、という問題提起がなされています。また脳機能学者・苫米地英人氏との対談も交えて、資本主義の制度の耐久年数の限界が近づいてきており、遠からず破綻するのではないかと指摘しています。元アレフ代表がこういう話を書くと「まだハルマゲドンですか?」みたいな捉えられ方をするでしょう。その点は野田氏も自覚した上で書いています。

 こうした考え方は、とくだん画期的なものではないと思います。これを単なる「資本主義批判の哲学書」と捉えてしまうと、あまり面白くないかもしれません。

■野田成人という人間が少し見えてきた

 この本の面白さは、もう少し違うところにあります。元オウム信者がいま、ホームレス支援活動をしている。それだけ聞くと、「社会に対する贖罪ですか?」と思えます。もちろんそういう側面もあるようです(野田氏は、ホームレス支援事業の収益でサリン事件の被害者に賠償をしています)。しかしそれだけではなく、この活動自体がどうも、彼がオウムに魅力を感じた理由や彼がオウムを通じて学んだ哲学の延長線上にあるようです。

 オウム体験を必ずしも全否定せず、麻原の人間性や能力すらも全否定しないまま(麻原信仰は捨てていますが)、いいことをしようとしている。それは直感的には理不尽とも思えるし、事件の被害者にとっては、もしかしたら許しがたいことでさえあるかもしれません。

 しかし賛同できるできないは別として、その部分についての説明は本書で存分になされています。

 オウム事件に対する彼の総括は、やや評論家的で無機的な印象でした(何かの意図で、敢えてそうしているのかもしれませんが)。しかし本書の後半では、野田成人という人間がいま何を考え、何をしようとしているのかが説明されています。ここにようやく、彼のオウム総括ではあまり感じられなかった彼自身のパソナリティ垣間見えた気がします。その点を面白いと感じました。

 「総括」とは、相手を納得させられるかや許してもらえるかより、率直に実状を説明できているかどうかの方が重要ではないでしょうか。そういう意味で、本書の価値は「オウム時代の総括」より「現在の野田成人についての総括」にあるように思えます。

■オウム信者の社会復帰

 もうひとつ、本書の後半からは、「オウム信者の社会復帰」の難しさも見えてきます。

 野田氏はホームレス支援活動の一環として当初、「派遣村」等でのボランティア活動をしていました。ところが野田氏は、これらのネットワークから排除されてしまったようで、その経緯が本書で説明されています。理由はいくつかあったようですが、どうも「元オウムだから」ということも無関係ではなさそうでした。

 しかし彼のホームレス支援活動が悪いことだとは思えません。オウム時代からの信者はすでに高齢化しており、アレフやひかりの輪から脱会したとしても、自身の生活で手いっぱいで賠償などできそうもない人が多いようです。しかし野田氏は、貧困問題に取り組みつつサリン被害者に賠償していこうとしています(本書の印税も、オウム被害者への賠償金に充てるとしています)。そこで「元オウムだから」という経歴が障害になってしまうなら、オウム信者はどうすればいいのでしょうか。脱会などせずにアレフやひかりの輪に残って「教団による賠償」に貢献した方がいいのでしょうか。

 もちろん、派遣村周辺の人々にはそれぞれの事情があるでしょうし、野田氏とのスタンスの違いもあるでしょう。元オウム信者の行く末について彼らが責任を持たなければならないもいわれもありません。私もどうすべきなのかはわかりません。しかし、少なくともこういう問題があるということは、多くの人に意識してもらいたいと思います。

 本書の直接のテーマではありませんが、こうした視点で、本書に描かれている野田氏の活動を見守る必要も感じます。

3 コメント:

匿名 さんのコメント...

オウム信者だった方の社会復帰、社会奉仕は、世間に受け入れられるには時間がかかるでしょう。また実際にサリン事件などで殺人などに直接加担していなかった人達が、どんな境遇で、信仰上の葛藤、社会的な人格の精査などを続けてきたか、なかなか興味深い問題です。元信者が個人のなかで、事件後、「人命」の尊重をどう考える至ったか(若しくは、至ってないか)、これは彼らだけでなく、日本人、および世界中の人が、再度注目すべき問題です。

資本主義の耐久性の問題も確かに興味深い、が、そんなに容易く語れる問題じゃないと思います。ま、お茶でも飲みながらチャットしてる分には面白い話ですが。資本主義って意外と単純な功利原理で働いてはいますが、その土地の歴史、文化、社会の成り立ちの経緯などの条件で、無限にその形を変えて、もともとの成り立ちやら原理なんかとは全くものになってしまう。しかしながら、利益追求と自己保存を効果的に担保してくれる装置として価値があるため(もちろん一部の人に)、現在でも修正を加えて保存されている。これは権力構造と関連していますから、とっても複雑です。よく言われる、資源の枯渇とともに資本主義は零落していくと考えられていますが、おそらくその逆かもしれないのです。なぜって、石油なんかなかった時代から資本主義(農業から第一次工業)は誕生しているのですから。

それはともかく、資本主義とオウムおよび宗教との関係を再度考えてみるには、この本の提起している問題はとても刺激的かもしれません。

匿名 さんのコメント...

まったく同じ日付で、出版社も同じサイゾーから『オウムを生きて-元信者たちの地下鉄サリン事件から15年-』という本が出ていました。編者は青木由美子さんという女性です。

「はじめに」で高橋シズエさんに電話して、ことの次第を話したら、「被害者が聞けないオウム側の声があるなら、読んでみたい、聞いてください」と言われたそうだ。
しかし、麻原の4女以外はすべて、一般の元信者になったそうである。
残念ながら、現場の声(現役信者)は聞けなかったらしい。

それでも、あれから15年経ってどんな気持ちでいるのかを知ることは意味があると思って購入しました。

まだ読んでないのですが、お知らせしたくて書きました。

藤倉善郎 さんのコメント...

情報ありがとうございます。私も購入済みですが、まだ読んでいる途中です。非常に濃密な内容の本なので、こちらもぜひ書評を書かせていただくつもりでいます。