ネタバレを避けたい人は、この記事は読まずに『太陽の法』初版を読んでから劇場へ!
■悪魔もすんなり試写会に入場
幸福の科学映画といえば、近年では創価学会・池田大作的な悪者を大川隆法的な救世主がやっつけたり(『仏陀再誕』)、中国的なもの(『神秘の法』)や北朝鮮的なもの(『ファイナル・ジャッジメント』)が日本に攻め込んできたり、高校生が宇宙人にさらわれたり宇宙人が地球に攻めてきたり(『UFO学園の秘密』)、天使が適当にヘラヘラしたり(『天使に“アイム・ファイン”』)、『君の名は。』のパクリみたいなタイトルの中途半端な時代劇だったり(『君のまなざし』)で、その独特の教義と世界観を観る者に押しつけてきた。共通しているのは、とくにかく説教臭い長台詞が多いこと。特にエンターテインメント色の強い作品では、クライマックスに長台詞が加わるため、クライマックスが長い!という特徴があった。そうやって、観客に一生懸命、教義を刷り込もうとする情熱に溢れていた。
では『さらば青春、されど青春。』はどうなのか。都内で行われたプレス試写会に足を運んでみた。
なにせ記者(藤倉)は幸福の科学で悪魔とされている立場。例によって教団職員などから「藤倉さんは出入り禁止!」とか言われると思いきや、試写会場に教団関係者と思しき姿はなく、配給会社の人だけ。すんなり入場できてしまった。この映画に懸ける幸福の科学のやる気のなさが感じられる。それに応えてプレス関係者もやる気なし。客席はガラガラだ。入場者は10人に満たない。そのうちの1人は悪魔だ。
誰一人としてやる気のない試写場の明かりが落ち、スクリーンにでっかくORマーク(正確にはROと呼ぶらしい)が映し出されて、上映が始まった。
銀河から飛び出した光の玉が地球に飛んでくる。大川隆法総裁の出生地である徳島県川島町に落ちてくる光の玉。「1956年7月7日午前7時」という大川総裁の誕生日時の字幕が現れ、「おんぎゃ~!」と泣きわめく赤ん坊。その直後には、スーツ姿の主人公の中道真一(大川宏洋)がニューヨークのビルを眺めながら「このビルが本物なのか、私の心が本物なのか」と訳のわからないことをつぶやく。成長早っ。
■喋ったこともない相手に大量のラブレター
川島町に今も残る生家と巡礼に来て写真を撮る信者 |
大川総裁の生家は駅から目と鼻の先。徒歩数分の場所にあるのだが、家族は駅にまでは送りに来ない。兄貴、荷物くらい持ってやればいいのに。家族愛が深いのか浅いのかよくわからなくなるシーンだ。
電車が阿波川島駅を出発し、鳴門の渦潮(徳島県)が大映しになったと思ったら、次のカットでは新幹線が富士山の手前(静岡県)を走り抜ける。神のような移動スピードだ。
それはそれとして史実では、大川総裁はこのまますんなり東大に入学したわけではない。1987年に発刊された『太陽の法』初版には、このような記述がある。
【太陽の法(初版) 1987年06月20日】しかし1浪する様子は、映画では描かれない。まるですんなり東京の名門大学に入学したかのような流れだ。
田舎育ちの少年は、18歳の春、30キロを越す本をバッグにつめ込んで、東京駅に降りたちました。まだ凍えるほどの寒さだったというのに、顔を上気させ、汗を流しながら、どうやって渋谷駅に行ったらよいかがわからず、途方にくれていたのです。この春、東京大学文科一類を受験して、二次試験不合格となりました。翌年は、蛍雪一年の功があって、なんとかすべり込みました。
大学に入り勉学に励む真一。友達は2人しかできない。その友達に「お前の論文は難しくてさっぱりわからない」と言われると、真一は「君たちには難しいかもな」と言い放ちしれっと傷つける。いかにも秀才といった描かれ方だが、『太陽の法』初版によれば大川総裁は東大入学後に1年、留年している。
真一は、口をきいたこともない同学年の女性に恋をして、一方的に大量のラブレターを送りつける。しかもその内容は「きみよ この風の声を聞かないか」という、大川総裁が学生時代にしたためたポエムと同じだ。
しかし女性の方は、「あなたとはお付き合いできません」という三行半をつきつけてくる。大川総裁の著書『太陽の法』の初版には、この部分が、このように描かれている。
【太陽の法(初版) 1987年06月20日】『さらば青春、されど青春。』の作中では、女性が真一をフッた理由が「あなたは高貴すぎて私にはふさわしくない」ということにされている。ずいぶん都合よく美化したものだ。しかし大量の自作ポエムを送りつけたエピソードは作中で恥ずかしげもなく描かれ、ポエムの内容まで晒している辺り、大川総裁はいまだに自分のキモさに気づいていないのか。
大学2年の冬から翌年の夏までは、都会育ちの才気煥発な女性に心魅かれて、ラブレターを書きつづけていたことをおぼえています。ラブレターを書きつづけて、半年後、やっと便せん一枚だけ返事がきました。それをもって、二階にあがる階段の途中で、太陽の光にすけて見えるその手紙の薄さに落胆しました。私は、彼女へのラブレターを、小包にして送っていたのです。
■ほとばしるルサンチマン
こんな調子で、大川総裁の青春時代が微妙な感じで美化されているのが、この作品の最初の見どころだ。真一は司法試験に落ちて意気消沈するが、それも「現行法の不備を指摘してしまったから無理もない」という理由で正当化される。就職活動に出遅れ、商社に就職することにしたと友人に話すと「もっといい会社に入れるだろう」などと言われるが、向こうから「三顧の礼」で頼まれたから引き受けるのが礼儀だろうなどという理由で正当化する。これも、『太陽の法』初版の記述とだいぶ違う。
【太陽の法(初版) 1987年06月20日】司法試験の合格発表のシーンでは、発表の掲示板に並んだ名前に注目だ。主人公の名前はないのだが、しれっと「中川」という名前の人物が合格している。大川隆法総裁の本名というか幼名は「中川隆」だ。作品の細部にまで大川総裁のルサンチマンが行き届いている。
頭が鈍るという理由から、夕食の量を減らしてまで、法律と政治学の勉強をしました。しかし、一年の留年ののち、司法試験は短答式試験には合格するも、論文試験には不合格。国家上級公務員試験も不合格。東大に助手として残ろうとしたのですが、成績不良につき、その道も閉ざされてしまいました。そして、ある商社にやっとひろわれた感じで就職したのです。
ちなみに、就職活動シーズンがすでに終わっていたことを知らなかった真一に2人の親友が「なんだ知らなかったのか!」的な反応をするシーンがある。この様子では2人の友人は真一に就職活動に関する情報や助言を全く伝えていなかったようだ。それでいて1人は大蔵省への就職が決まっていた。親友っぽく描かれている2人だが、実は親しくもなければ友人思いでもないことがわかる。
これは史実の美化云々ではなく、単純に脚本がおかしい。
■イイシラセ、イイシラセ、イイシラセ……
序盤はこんなトホホな青春ドラマが展開するが、就職が決まって学生生活も終わろうとしている頃、「1981年3月23日」という字幕が出て、軽く「ど~ん」という効果音が。幸福の科学マニアとしては、無意識に背筋が伸びる。そう、この日付は、大川総裁に霊道が開いて霊界からのメッセージが送られてきた「大悟の日」だ。
2015年に幸福の科学学園に勝訴した本紙・藤倉総裁 |
真一の手が勝手に動いて、紙にこんな言葉を書きなぐる。青春ドラマが一気にデンパ臭を帯び、ホラー映画の始まりだ。
光り輝く5人の霊人が現れ、真一に「あなたは救世主」だとか「あなたの教えを早く人々に広めて」などと勧誘する。普通なら、「え? オレが救世主? まさかあ」の一言くらい入るべきシーンだが、真一はそこには全く疑問を抱かない。しかし「就職して仕事始めるんでちょっと待って」的に断り、霊人たちは「お待ちしております」と素直に引き下がる。なんだこれ?
この「イイシラセ」は、史実では大川総裁は24歳の春のこと。この直前からの流れが、『太陽の法』初版ではこう説明されている。
【太陽の法(初版) 1987年06月20日】
24歳の冬、私は、高橋佳子著の『真・創世紀 地獄篇』『天上編』などを読み、これを通して、さらに高橋信次著『心の発見』と出会ったのです。夜あけ前が、いちばん闇は深く、運命は、ひらける前に、その底につきあたるのです。そして、とうとう、運命の歯車がまわりはじめました。大学卒業前の、卒業試験の頃でした。
(略)
法律ばかりを勉強していた私が、六法ではなく、正法に触れたのです。1981年1月のことでした。高橋信次の著作『心の発見・神理編』をはじめて読みはじめたのですが、57ページぐらいに達したとき、私は、自分の胸が大きく打ちはじめ、体が、こきざみに前後に揺れていることに気づきました。
なにかが起ころうとしていたのです。私は、この同じ著書の作品をつぎつぎと読んでいったのですが、口をついて出てくるのは、「私は、この神理を知っている。むかし、これを学んだことがある」ということばでした。
同年の3月23日、日曜日だったと思います。突然、だれかが自分に話しかけようとしているという気持ちに打たれ、いそいで、カードと鉛筆を用意しました。鉛筆をもつ私の手が、まるで生きもののように動きはじめ、「イイシラセ、イイシラセ」と、カードに何枚も書きはじめたのです。
どう見ても、GLAの教祖・高橋信次や2代目主宰者・高橋佳子に触発されて「自分には特別な使命がある」と思い込み、ちょっと遅めの中二病を発症しただけのことだろう。しかしもちろん、こんな経緯は映画の中では一切、描かれない。真一だけが唯一の特別な人間として描かれている作品の流れは、さらにこじらせている感じでたまらない。
■日蓮である!
就職してバリバリ働く真一だが、「救世主として宗教を開くか、会社や家族に迷惑をかけないためにもうしばらく仕事を続けるか」という、観る者が全く感情移入できないデンパな悩みに揺れ動く。才能を見込まれニューヨーク支社に出向し、そこでも見込まれて「駐在員になって長くいてほしい」と請われ、現地の女性社員に惚れられる。しかし宗教をやりたいのでぜんぶ投げ捨てて帰国する。ここでも、大川総裁が商社で大成しなかったことが美化され正当化されているのではないかと思えてしまう。
この頃の真一はデンパに拍車がかかり、日蓮の霊を降ろしてその言葉を原稿用紙に書きためる。史実では、大川親子は日蓮の霊言の出版より前に「シルバー・バーチの霊言」の出版を目論むが、出版されずにお蔵入りしている。作中では、そんな歴史もないことになっている。また初期の霊言は、川島町の自宅で大川総裁が降霊し父・善川三朗や兄・富山誠(教団初期には、3人が親子であることを信者に隠していた)がそれにインタビューしてラジカセで録音するという形がとられていたが、この作品では、そういったスピリチュアル一家の様子は描かれない。ちなみに、大川総裁の生家の近所の人の話では、大川総裁の母親も近所の人に向かって「霊が見える」などと口走るスピリチュアルさんだ。
作中で父や兄が真一の霊能力を知るのは、帰省した真一が「霊言ができるようになった」と話したときだ。ちゃぶ台を囲んでこんなやり取りが繰り広げられる。
父「霊言が出来るようになったってのは、ホンマのホンマか。ちょっとやってみてくれるか」
真一「日蓮である!」
真一の顔がピカーッと光って、ちょっと仏様っぽいCG顔に。何をやってるんだ、この親子は。
実際の霊言は、霊が降りてきても見た目はいつも普通の大川総裁だ。湯川秀樹や古舘伊知郎の霊言で大川総裁がメガネをかけたり、ブルース・リーの霊言で大川総裁が「あちょー!」と叫んだり、ホーキング博士の霊言では筋萎縮性側索硬化症っぽい動きをして見せるなど、中途半端なモノマネをすることはあるが、顔が光ったことなどない。
信者たちは日頃、霊言の映像を見ているはずだが、降霊の様子がここまで美化されていることに違和感を抱かないだろうか。
やがて父が見つけてきた出版社から、日蓮などの霊言本が次々と出版される。書店には書棚1つを占めて霊言本が平積みという、すさまじいベストセラーだ。また美化してるんじゃないのか。
ちなみに、初めて霊言本が書店に並んだシーンでは、霊言本の近くの書棚に『ボディ・ジャック』というタイトルの本が一瞬だけ映る。2005年に幸福の科学ユートピア文学賞を受け翌年出版された小説で、2008年に映画化された。しかしこのシーンの時代設定は80年代。本来なら、書棚に並んでいてはいけない書籍だ。
さして重要でもないシーンでも、油断しているとこうした細部の面白さを見過ごすから注意だ。
■さんざん待たせて清水富美加登場
さて、清水富美加はなかなか出てこない。霊言を降ろすようになった頃の真一が仕事先で名古屋支社に配属されたところで、ようやく登場する。同僚の額田美子である。
美子は、会社の前で真一とぶつかったことで出会う。タクシーに乗ろうとした2人がぶつかり、横入りしてきた別の客がタクシーに乗って行ってしまう。2人が見ている前でそのそのタクシーが別の車と衝突してど~ん! おかげで美子と真一は事故を免れたという描写だが、だからどうした、という感じだ。特に何かの伏線とかではない。
やがて2人は恋仲になるが、真一は仕事を辞めて宗教を開きたいというデンパな夢を打ち明けることができない。美子は美子で、仕事をやめてジャーナリストになりたいという夢を持っている。ところが書店で真一の霊言本を見つけると、ジャーナリストになる夢をほったらかして「あなたについていく!」的に盛り上がってしまう。普通なら知り合いがこんな本を出しているのを知ったらドン引きしそうなものだが、この作品の主要登場人物の中に、そういう常識的な感覚の持ち主はいない。
しかし真一は、「愛する人を路頭に迷わせたくない」的なことを言って煮えきらず、美子は泣きながら走り去る。以前2人で観に行った映画『いちご白書』のポスターが雨に破れかけ、過ぎ去った昔があざやかによみがえるが、ここで流れる曲はバンバンではない。千眼美子が歌う主題歌『眠れぬ夜を超えて』(作詞作曲・大川隆法)。
♪ほしかったのはお別れのキスなんかじゃない ぼくと結婚してくれと ただその一言だけを待っていたのに
結婚目当てのラブソングという、微妙な歌詞。
■悪魔への嫌がらせのために立ち上がる
真一は自宅で瞑想しながら悩む。定年退職した父、ニートだったが父の退職金で学習塾を開くも経営がうまくいかない兄、すでに理髪店を廃業した母、そんな家族や美子を食わせていくためにも、45歳くらいまでは仕事を続けて、宗教を作るのはその後でいいのではないかと自問自答する。背後に、黒い影のような人物が「そうだ、それが正しい」とばかりに語りかける。どうやら悪魔らしいのだが、なかなか常識的な悪魔だ。
すると真一は、仕事を辞めて宗教を開く決意を固めてしまう。その理屈が凄い。
「これはきっと悪魔の妨害だ。悪魔が邪魔をするということは、自分が救世主であり、今こそ立つべきなのだということの証明ではないのか!」
悪魔が言うことと逆のことをしときゃOK!という逆ギレ的覚醒。霊人の勧誘は袖にし続けたくせに、悪魔に嫌がらせをしたいがために救世主が立ち上がる。部屋の窓の外に、真一の決意を象徴するように真っ赤な太陽が昇る。
やがて場面は「第1回記念講演会」へ。満席のホールで壇上に立つ真一と、会場の隅から笑顔で見守る美子(しっかり教団幹部に収まったっぽい)。
■家族ぐるみで作った父親の歴史修正映画
そしてこの家族映画では、大川総裁から「裏切りのユダ」認定され教団を追い出された元妻・きょう子氏の存在を感じさせるものは皆無。きょう子氏は、幸福の科学の勉強会に参加し入信してから大川総裁と出会っている。作中で教団設立前から真一と恋仲になり真一を支えた設定になっている美子は、きょう子氏とは明らかに別キャラだ。教団草創期の別の女性幹部がモデルか、あるいは架空のキャラクターなのだろう。
宏洋、裕太、咲也加にしてみれば、きょう子氏は実の母親なのだが、きれいさっぱり家族史から抹消されている。この設定では、真一が美子の霊を呼び出して口汚く罵り泥沼の離婚劇を描く続編『さらば悪妻、されど悪妻。』は期待できそうにない。
■映画作品としては、かなり残念な作り
宏洋の演技はかなり下手くそ。しかし顔立ちに大川総裁の面影が色濃いだけに、観る側が「これは若き日の大川総裁を描いたドキュメンタリーなのだ」と思いこむことで、何とかいける。
映像は、かなりチープだ。大学のシーンでは、キャンパスに学生運動の立て看板などが、それっぽいゲバ文字で描かれており、いちおう70年代という時代を再現しようという努力は見られる。しかし時折登場する大学の図書館がとても70年代とは思えない現代的な見てくれ。居酒屋や商社のオフィスのシーンでは昔風のタバコ自販機が何度も出てくるが、これ見よがしすぎて、いかにも自販機で時代を説明してますよといった押し付けがましさがある。商社時代の真一がニューヨークで勤務しているシーンも不自然だ。町並みなどの風景と真一が一緒に映るシーンが、ほぼない。もしかしたらロケをしなかったのか?
上映後、メディア関係者の1人が「真一が上京するシーンで、富士山の前を通過する新幹線の車両デザインや東京駅のCGが忠実に70年代当時を再現していた」と興奮気味に話していた。鉄道関係には謎のこだわりを見せている作品だ。
しかし全体的に映画作品としてのクオリティは低く、感情移入して鑑賞するのは難しい。事情を知らない人が観たら、青春ドラマの途中からデンパ全開ドラマになっていくホラー展開にも、ちょっとついていけないだろう。
それでも幸福の科学の歴史を踏まえて見れば、随所に見られる美化、誇張、正当化、捏造のオンパレードは、マニアにはたまらない。飽きが来ないどころか抱腹絶倒の114分だ。
制作側が大川総裁の半生を美化するストーリーづくりに集中しているせいか、従来作品に比べて説教臭い主人公の独白や演説よりも、ストーリーの流れに拠って立つ作品構成になっている。これも観る側にとっては苦痛が少なくていいし、そのストーリーにツッコミどころが満載ときている。マニアにとっては、もはや完璧な作品と言っていいだろう。
■これは信者よりアンチを楽しませる作品だ
教団内プロモイベントのチラシ |
その後、メディアやニコニコ超会議などに登場して一般向けのプロモーションを行っているのも、清水1人。1年前には清水が出家・引退したせいで、『暗黒女子』と『笑う招き猫』の2本の映画のプロモーションや舞台挨拶に主演の一人である清水が不在という事態が発生した。それが今回の『さらば青春、されど青春。』では、教祖の長男が不在となり清水がその尻拭いをするという、皮肉的な逆転現象が起こっている。カルマだ。
史実の美化や誇張に、芸能カルマ的な舞台裏。これは信者を満足させるための映画でも、新しい信者を獲得するための映画でもない。幸福の科学をネタにして面白がるマニアやアンチのための映画だ。宏洋の最後の主演作になるかもしれないし。
幸福の科学映画としては歴史的名作。信者たちと同じように何枚もチケットを買って映画館に何度も入場して鑑賞する「ぐるぐる」をやるしかない。もちろん現役信者たちも、ネット上でアンチの指摘を見て予習してから映画を見れば、楽しさ倍増、間違いなし。
【評価】
一般客視点:★
幸福の科学マニア視点:★★★★★★★★★★
18 コメント:
「さらば青春、されど青春。」はコメディ映画だったんですね。
藤倉はん、あんはんやっぱり悪魔ですわ!
なんでんねん? こんホメ殺しの数々!
「ほっぽりコンビ」
「やる気のなさ」
「家族愛が深いのか浅いのかよくわからなく」
「作品の細部にまで大川総裁のルサンチマンが行き届いている」
「実は親しくもなければ友人思いでもないことがわかる」
「真一はそこには全く疑問を抱かない」
「ちょっと遅めの中二病を発症しただけのことだろう」
「本来なら、書棚に並んでいてはいけない書籍だ」
「『いちご白書』のポスターが雨に破れかけ・・・」
「なかなか常識的な悪魔だ」
「元妻・きょう子氏の存在を感じさせるものは皆無」
『さらば悪妻、されど悪妻。』
「教団からほっぽり出されてしまった宏洋の姿はない」
最後のコトバにも反論がおます。
史実の美化や誇張に、芸能カルマ的な舞台裏。これは信者を満足させるための映画でも、新しい信者を獲得するための映画でもない。幸福の科学をネタにして面白がるマニアやアンチのための映画だ。
わての見解では「オーカワひとりが満足するための映画」だす!
>真一が美子の霊を呼び出して口汚く罵り泥沼の離婚劇を描く続編『さらば悪妻、されど悪妻。』
これはっ!見たい!!!
光り輝く5人の霊人が現れ、真一に
「あなたは救世主」だとか
「あなたの教えを早く人々に広めて」
などと勧誘する。
・・・・・・・・・・・・・・・
コレ、カルト宗教の定番ww
バカバカしいったらありゃしないww
「幸福の科学」もまた、
巷のカルトの一つでしかないんだよww
いい加減、気付け!!
バカ信者どもww
https://ameblo.jp/01000440ktndy/entry-12372400172.html
ボディ・ジャックのくだりとか、ほんと良く観てますねえ……。悪魔が一番いい鑑賞者って、HS的にいいのか。笑
タダ券はどこで手に入りますか? 信者じゃないので精舎とか行きたくないけど。
>随所に見られる美化、誇張、正当化、捏造のオンパレード
まるで北朝鮮映画のレビューみたいだな。
>就職活動シーズンがすでに終わっていたことを知らなかった真一に2人の親友が「なんだ知らなかったのか!」的な反応をするシーンがある。
これは大川隆法の書籍のどこかに書いてあったような気がする。
どうせ教祖の半生ものをやるなら、子供のころの話もしっかりやればよかったのにね。
肥満児でプール大嫌いだったエピソードがないのは寂しい。
あとアメリカに行ったときに英語が苦手で・・・もやってほしかった。
>「このビルが本物なのか、私の心が本物なのか」
ビルがハリボテのはずないから本物、
よって二者択一なら大川の心は偽物
冒頭に一番大切なセリフを持ってきている構成なのですね
親友の一人がいった「あの論文は難しくて理解できない」というのは、ハンナ・アーレントが書いた論文(本?)にいったはずだったと思います。
加えて、額田美子さんは、ちゃんと実在の人物をモデルにしています。ちなみに、結婚もしていません。
私の記憶違いなら申し訳無いですm(__)m
この記事は、ストーリーがよくまとめられててわかりやすかったです。
>ニートだったが父の退職金で学習塾を開くも経営がうまくいかない兄、
ニートっていう言葉を久々に聞いたw
ああ長男さん何があったか知らないけれど、一族から絶縁されたわけですね・・・。清水さんは相変わらず元気そう・・・。
タダでも観たいと思わない映画だ
いやー、駄作なのにもう一回無駄に見たい
自分の半生としての主人公を美化とか、まるでどっかのカルトの創価学会みたいだなw
あっちは延々ラジオで垂れ流ししてるけど
まるでどっtかのカルトの創価学会みたいだなw
↑
堂々と言えよ
大川隆法=駄作濫造
これ、一般論。
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