慰霊祭のチラシ |
この件について靖国神社広報は本紙の取材に対し「神社側としては関わっていないためコメントできない」と答えている。
また神社側は「借りに来たから貸しただけ」としており、慰霊祭主催者側からの『挨拶してくれ』との依頼を断っていたことも判明した。
慰霊祭を主催するのは宗教新聞社と平和大使協議会、共に統一教会の関連団体である。
【戦没者並びに東日本大震災犠牲者の追悼慰霊祭 2013年3月7日】
【ご案内】
間もなく東日本大震災から丸二年を迎えます。昨年同様、靖国神社において、宗教新聞社と平和大使協議会の共催で「戦没者並びに東日本大震災犠牲者追悼慰霊祭」を開催することになりました。国を守るために尊い生命を捧げられた戦没者の方々、並びに大震災で犠牲になられた方々の為に、宗派を超えて追悼の祈りを捧げてまいります。
皆様の祈りを束ねて、国家安泰を被災地の復興促進、平和世界の建設に向けて、力強く出発していくことができますように、皆様のご参加を心よりお待ちしております。
日時:2013年3月7日(木) 午後1時~午後4時半
場所:靖国神社 靖国会館・階行の間
〒102-8246 東京都千代田区九段下3-1-1
TEL 03(3261)8326代表
参加費:1,000円
主催:宗教新聞社/平和大使協議会
連絡先:慰霊祭事務局
電話:03-5363-5181
FAX:03-5363-5182
e-mail:religion@saga.ocn.ne.jp
申込先:参加希望の方は上記事務局にメールかファクスでその旨ご連絡ください
統一教会と云えば、震災に乗じて信者から多額の献金を集めたり、当時の総会長が津波被害について暴言を発するなどおおよそ慰霊祭を主催する側としては「ふさわしくない」ことを多々行なってきた教団だ。
そんな教団の関連団体が震災犠牲者の慰霊祭を行なうこと自体、不謹慎なことである。
靖国神社広報に問い合わせた。
慰霊祭チラシ |
貸し出しの受付けについては管理課が担当していて、階行の間の場所貸しの値段は2万円だという。
この件の経緯について、広報では把握も承知もしておらず、神社側としては関わっていないためコメントできないとのことだった。
また、情報提供者によると、靖国神社側は「借りに来たから貸しただけ」「『挨拶してくれ』と言われたが断った」と話していたそうだ。
広報担当者は「どちらにしても場所貸しですから」と話したが、この様に場所貸しするパターンが多いかどうかについては「ないと思います」と答え「こういったことはあまりないのでパイプがあったのかもしれませんね」と「担当者の判断」であることを付け加えた。
靖国神社 |
収入源となる大口の寄付も減少傾向にあるという靖国神社、財政難から職員のリストラも進められたとされる。昨年も貸し出しをしていることから統一教会の関連団体と判った上で場所貸しをしていると思われる。カルト教団の関連団体であっても会場賃貸の収入源として相手を択んではいられないということではないかとも思われたが、貸し出し代は僅か2万円である。貸し出し代目的で貸すというよりは、靖国神社側と統一教会関連団体の間に何らかのパイプがあると見るべきであろう。
宗教新聞関連では予てから統一教会に協力する他の宗教団体の聖職者の存在が問題視されてきた。慰霊祭当日、靖国会館に行けば、統一教会に協力する他宗教の聖職者が判るかもしれない。
463 コメント:
«最後 ‹次 401 – 463 / 463 前› 最新»>大体チョンコに自分だけの教義を創造することなんて出来るわけねえだろ。連中に出来るのはパクリだけ
イスラエル修道院がイスラエルにあると思った?(笑)
>おい、1800年の伝統を持つ伝統宗教のイスラム教を後者3つと一緒にするんじゃねえよ
アハハハハハハハハ(≧∇≦)
イスラム教が誕生したのは610年。1403年前だね。
君は2410年から書き込みしてるの?ドラえもんがタイムマシン使わせてくれたの?のび太の子孫なの?
ゲラゲラゲラゲラ(≧∇≦)
1400年と1800年の違いなんて大したことねぇだろ、ねえ、人類6000年の歴史で400代の祖先を持つ統一教会君。悔しかったら6000年で400代の矛盾を説明してみ
>1400年と1800年の違いなんて大したことねぇだろ
アハハハハハハハ(ノ∀`)
悔しいねえ。悔しいねえw
人類は20万年前からいただろwwwww
あー、ハイハイ、紀元200年と紀元610年間違えたのは俺の間違いだよ。Wikingご苦労さん。イスラム教が伝統宗教だってことには違いないだろ?なあ、新興宗教の信者さん?
ロドリゲスさん
>異教や新宗教やカルトの信者も「この方でしかない」という個人の問題であり、「私の主」と受け入れざるをえない心からの訴えと願い、想いといったものから信仰を持っているのではありませんか?
>個人の信仰においてそれを認めることはオリゲネスさんのプライドが許しませんか?
こっちのコメントから。
ですから、私は統一協会の信者さんからもその信仰の内にある輝きを拾いたいのですよ。
私は統一協会の信者さんが文鮮明を信じることを否定しませんし、脱会させようとも思いません。
そのことはここで何度も繰り返し言っています。
私が批判しているのはカルト性であっても、文鮮明を大切に思う信仰心を否定するつもりはありません。
文鮮明が霊感商法や偽装勧誘など、人を騙してお金を巻き上げたり、嘘をついてその人を自分たちの罠にはめたり、そんなことを指導しているのであれば別ですが、統一協会の信者さんは文鮮明についてどのように考え理解しているのかを知りたいと思います。
私は以上のことを何度も語っていますが、なぜそのような質問をされるのか理解しかねます。
なぜでしょうか?
ロドリゲスさん
>そもそも、私は「カルト=宗教心」などとは一言も言っていません。まず、オリゲネスさんが落ち着いて正確にコメントを読まれることを願います。
そうではなく、ロドリゲスさんがカルトと宗教心をごっちゃにした論述をしているので、ちゃんとその違いが区別できている人であることが分かる程度に意見を述べてくださいと言っているのです。
たとえば以下のようなコメントです。
>>私が聖書の御言葉をなぜ受け入れるか、これでだいたいはおわかりでしょう。
>はい。それに関してはカルト信者と大差ないことがよく分かりました。
私がした聖書がなぜ信じられるかという説明に対して「カルト信者と大差ない」というという応答は、聖書に対して信仰心で向かっているのか、反社会的かつ破壊的な思考で向かっているのかをごっちゃにした記述ですね。
ですから、ちゃんとカルトの定義をすべきであることを伝えました。
ちゃんとカルトの定義をすれば、そのような応答にはならないでしょう。
ということで、以後よろしくお願いしますね(^-^)
ロドリゲスさん
>あえて客観的に表現するならば、古代の書物に書かれた主人公の人格が素晴らしいから、その書物のトンデモな内容までをも信じるということに他なりませんが、異論ありますか?
イエス・キリストは偉大な人格者というものではないのです。つまり偉人の部類ではないです。その意味での「人格」ではありません。キリスト教におけるペルソナ論では、偉人といういみで「人格者」を扱う事はほとんどありません。そうではなく、神が人となったというキリストの人性(じんせい)を中心とした「人格」です。つまり、神が人となったというのは、神が人間と人格と人格の交わりを持ったという出来事に焦点を当てているのです。ですから、何やら聖人といった人格者だから、そこにまつわるところは何でも信じるということとは異なります。そういう理解は何も見えてこないと思います。
キリスト教の本質はイエス・キリストの一点にあると繰り返し言っていますが、これは何度も繰り返し認識してもらうのがいいです。
たとえば、私の教会の近くにある日本基督教団の牧師は「イエスの復活は本当にあったか分からない。」と平気で言います。聖書に記されている復活を信じていないのです。
でも、彼はイエスさまを信じていて、よく牧会されています。
もちろん、彼はクリスチャンですし、否定すべきでもありません。
彼のような信仰スタイルはリベラルと言われる人たちに多いのですが、私はそれはそれでいいと思っています。リベラル神学も学んでみると面白いのです。
キリスト者の信仰というのは、ロドリゲスさんが思っているほど浅いものでも短絡的なものでもないのです。
一度、キリスト教会に行かれてみるといいですよ。
いろいろな人がいて、いろいろな信仰があるのです。でも、やはりそれぞれにキリストを心に抱いています。
>オリゲネスさんの言う「盲信」と「信仰」の違いは何でしょうか?
「盲信」というのは、盲従をとおして盲目に信じることでしょう。
「信仰」というのは、神の前における一人の人格として尊重されている中で、神における信頼があります。
だから、イエスさまのお弟子さんたちはみな個性豊かでした。
それぞれがイエスさまに対する自由な応答を通して行動しているので、個性的です。
神が人となられたというのは、神が人格と人格の触れ合いを求めたということでもあります。ですから、私たちの人格を失ったところに盲従を求めさせることは福音ではありません。
受肉論やペルソナ論がキリスト教では深く洞察されるのはそういった重要な意味があるからです。
「聖書に書いてあるから信じろ!」という接近の仕方は特別な場合を除いて、イエスさまはなさらないだろうと思います。
そうではなく、「聖書を開いてごらん、そこに私はいるから。」というアプローチの方がイエスさまらしいですかね。
「聖書に書いてあるから信じろ!」
「聖書を開いてごらん、そこには私がいるから。」
この二つは、同じように「聖書を信じる」という形になるかもしれませんが、まるで異なります。
「聖書を信じる」という命題を採り上げても、この二つの違いをごっちゃにして語るのと、その違いを明確に理解して行くことではまるで違いますね。
>異教や新宗教やカルトの信仰がお粗末であり、オリゲネスさんの信仰がそうではないという理由をご説明願えますか?
盲従や盲信であれば、お粗末でしょうね。
信仰者はお粗末であってはならないでしょう。
お粗末ではないとは言い切れないのですが、やはりそのお粗末さには常に自己批判を持つ必要があります。
信仰というのは深めていくものです。
私はロドリゲスさんとの対話を通して、ロドリゲスさんからたくさんのことを学んでいます。
やはり私自身が問われ、もう一度自分自身を省みることができるからです。
ロドリゲスさんのような疑問から、キリスト教に対する偏見や批判などを改めて認識できます。
カルトと伝統的宗教を区別できないのは、ロドリゲスさんに限ったことではないのでしょうからね(^-^)
私には良き学びです。
>幻が見えたり体が温かくなって涙が出たりが信じる理由でないなら、なぜそれらの話を私の質問に対して長々と書いたのでしょうか(笑)
そのような現象ばかりに関心が言ってしまうから、私の文章を見落とすのです。
そのような現象は、私の信仰の比較的初期のこころにあって私の心の深いところの問題の解決と癒しに関係していたからです。
それい以上に、「しるしや不思議」を求めることに私は意義を感じません。
たとえば、ある教祖が宙に浮いたからといって、私には関係ありません。
すごいパワーの人を見て、「すごいなあ!」とは思うけど、信じないでしょうね。
私にとってキリスト信仰は、イエスさまが私に触れたということ。イエスさまが私に出会ってくださったということ。そのことにおいて奇蹟があります。
>このような宗教体験は実をいうと、人為的にごく簡単な手法で起こすことができるのです。
このようなエイトさんの記述は、安易にカルトに取り込まれないためにも重要なものです。実はエイトさんと私の志は同じです。むしろエイトさんの方がこの分野に長けているので、よく学ぼうと思っています。
かつてエイトさんは統一協会問題について、「彼らはフェアじゃない」と言っていました。
私はその意味がわかるようで分かっていませんでした。
でも、カルト問題を見ていくとき「フェア」であるかは非常に重要なファクターであることに気づかされるようになりました。
容易にカルトに取り込まれないようにということを意図したエイトさんの記事を、宗教心を潰すために用いることは、その動機が違うために記事の目的が変質してしまいます。
さて、話を戻して、いろいろな超常現象ですが、私の理解でいえばオカルトに扉を開ければさまざまな超常現象は舞い込んでくるでしょう。オカルト体質で苦しんでいる人はたくさんいます。オカルトを好き好む人たちは結構たくさんいて、今日あるペンテコステ・カリスマ運動の行き過ぎがオカルトへの扉となっていることを私は警戒しています。
現在のプロテスタント教会においては、キリスト教会は教会の「カルト化」の問題ばかりが危険視され、教会の「オカルト化」については野放しになっています。
>キリスト者の信仰というのは、ロドリゲスさんが思っているほど浅いものでも短絡的なものでもないのです。
>いろいろな人がいて、いろいろな信仰があるのです。でも、やはりそれぞれにキリストを心に抱いています。
私はキリスト教に詳しいとは言いませんが、福音派からリベラルまでいろいろあるのは知っていますよ。
そして、ここではオリゲネスさんの信仰についてお尋ねしているのです。
>私がした聖書がなぜ信じられるかという説明に対して「カルト信者と大差ない」というという応答は、聖書に対して信仰心で向かっているのか、反社会的かつ破壊的な思考で向かっているのかをごっちゃにした記述ですね。
見落としているのはオリゲネスさんですね。
私は「それに関しては」とわざわざ書いています。この意味が理解できませんか?
熱心な信仰を持ったことが裏目に出て、救いのためと信じて教団の上司信者の指示に従い、結果として反社会的な行為を行ってしまう、それがカルトです。
反社会的な行為を行わない団体と比べれば、行動の面では違いがあります。
しかし、信者個人の内面において神仏の働きを感じ、神仏を信ずる信仰心の部分においては、必ずしも違わないのです。
その証拠に、オリゲネスさんの信仰告白は、まさに異教や新宗教やカルトにおいても見られる類のものです。
ですが、それぞれの宗教の信者は、自分の信ずる教団こそが正しく本物で、他とは違うと考えているのです。
オリゲネスさんが、本当に自己批判できる人間であれば、ご自身もその一人であるという事実を認めることができるはずなのですよ。
>そうではなく、ロドリゲスさんがカルトと宗教心をごっちゃにした論述をしているので
私はカルトを「反社会的な宗教団体」という定義で話をしています。
カルトと「宗教心」をごっちゃになどしていると感じられるのでしたら、それはオリゲネスさんの読解力・理解力・思考力の不足を露呈しているに過ぎません。
>ですから、ちゃんとカルトの定義をすべきであることを伝えました。
それはこちらの台詞です。
私は「カルト=反社会的な宗教団体」という具体的な定義を何度も提示しております。
また、この定義が気に食わなければオリゲネスさんの定義を具体的に提示してくださいと言っております。
それに対して何ら具体的な定義を提示していないのがオリゲネスさんです。
それで、ここでは「カルト=反社会的な宗教団体」という定義でよろしいですか?いけませんか?
いけないならば具体的な定義を提示してください。
オリゲネスさん、いい加減にはっきりしていただけますか?
>そのような現象ばかりに関心が言ってしまうから、私の文章を見落とすのです。
いいえ。そもそも明らかにオリゲネスさんは説明不足ですよ。
例えば、イエスの人格云々についても、「人格が人格が」と繰り返すばかりで、イエスの人格が「どうだから」信仰するのか、という説明が先のコメントまで全く無かった訳です。
そのように、オリゲネスさんはキリスト教でしか通用しない言葉を並べて説明したつもりになっているのかもしれませんが、それはキリスト教内でしか意味をなしません。
傍からすれば、それはカルト信者がその教団の用語を並べているのと同じことなのです。
>カルトと伝統的宗教を区別できないのは、ロドリゲスさんに限ったことではないのでしょうからね(^-^)
カルトと伝統的宗教が同じであるなどとは最初から言っておりませんが。オリゲネスさん、大丈夫ですか?
しかし、カルトと伝統宗教は必ずしも排反であるとも限りませんよ。
例えば、キリスト教が無実の人々を魔女と呼び火炙りにして殺してきたという行為だって見方によっては十分に反社会的行為です。
>神が人となったというキリストの人性(じんせい)を中心とした「人格」です。
ですからつまり、昔の書物に神が人となったと書かれているから、それを信じ、その書物のトンデモな内容までをも信じているわけですよね?
違いますか?
>異教や新宗教やカルトの信者も「この方でしかない」という個人の問題であり、「私の主」と受け入れざるをえない心からの訴えと願い、想いといったものから信仰を持っているのではありませんか?
へえー?
偽装勧誘で誘い込まれ
マイコンで自由意思を奪われ
恐怖によって脱会が出来ない状況に追い込まれ
自らがまた他者を騙す行為に携わるという悪循環
ってとこだよなw
ロドリゲスさん
>その証拠に、オリゲネスさんの信仰告白は、まさに異教や新宗教やカルトにおいても見られる類のものです。
>ですが、それぞれの宗教の信者は、自分の信ずる教団こそが正しく本物で、他とは違うと考えているのです。
>オリゲネスさんが、本当に自己批判できる人間であれば、ご自身もその一人であるという事実を認めることができるはずなのですよ。
なるほど。
そのような意味であれば、おっしゃるとおりです。
私が真光の信者の青年に、「何で信じているの?」と聞くと、その青年は「病気だったのに治りました!」とはっきりと告白しています。
私はそのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
いえ、ロドリゲスさんのように「宗教」もカルトも同じように見える人には、宗教にあることが「カルト信者と大差ない」と思えても無理はないです。
たとえば、神に祈る行為は「宗教」にあります。
しかし、カルトもやっていることです。
それをもって「カルト信者と大差ない」とはいいません。
ロドリゲスさんがちゃんとカルトと宗教の区別をされているのであれば、「カルト信者と大差ない」という表現はでてこないでしょう。
ですから、カルトの定義を明確にするようにお願いしました。
ロドリゲスさんはカルトの定義を明確にされたようなので、その定義においてちゃんと区別されていることがある程度相手に分かるような程の論述をお願いします。
>それで、ここでは「カルト=反社会的な宗教団体」という定義でよろしいですか?いけませんか?
>オリゲネスさん、いい加減にはっきりしていただけますか?
はい、ロドリゲスさんの定義で大丈夫です。
私の方は、すでにシンガーの定義を紹介しています。
というよりも、ロドリゲスさんのためにちゃんと伝えたはずなのですが・・・コメントが長かったからスルーしてしまったようですね。
シンガーは「反社会的」であり「破壊的」という意味を含み、「洗脳を手段とする傾向がある」ということを書いています。
私もそれが簡潔でよいと思っています。
ただ、「洗脳」の部分については、「マインドコントロール」といった形で一般には理解されるようになりました。
これについては、シンガー著『カルト』、ハッサン著『マインドコントロールの恐怖』、西田公昭『マインドコントロール』を紹介させていただきました。
カルトに関する著書は、自分の信仰を省みるのに非常によい学びを提供してくれます。
私はあれこれと手を出しましたが、特にすぐれているものに以下のものがあります。
和賀眞也著『統一協会と文鮮明』
浅見定雄著『統一協会=原理運動』
マインドコントロール研究所編『統一協会から愛する人をつけるために』
井門富士夫著『カルトの諸相』
櫻井義秀著『霊と金』
これらは良書です。
これに加えて異色な著作として、斉藤貴男著『カルト資本主義』がお薦めです。この本で私のカルトに対する理解も大きく変えられました。
>例えば、イエスの人格云々についても、「人格が人格が」と繰り返すばかりで、イエスの人格が「どうだから」信仰するのか、という説明が先のコメントまで全く無かった訳です。
>そのように、オリゲネスさんはキリスト教でしか通用しない言葉を並べて説明したつもりになっているのかもしれませんが、それはキリスト教内でしか意味をなしません。
>傍からすれば、それはカルト信者がその教団の用語を並べているのと同じことなのです。
はい、これです。まさにこれが大切です。
ロドリゲスとオリゲネスの対話が深まったからです。
ロドリゲスさんがどこまでキリスト教について見えていて、どこまで見えてないかに気づかされるように、私自身もまた自分がどこまで見えていて見えていないかに気づかされます。
信仰を持たない人々が見ている視点が、私にはあまりよく分からなくなっていますからね。
信仰を持たない人からすれば、宗教だろうとカルトだろうと同じようなことをやっているとしか思えない部分もあるのでしょう。
それに腹を立てても仕方ないし、むしろ、なるほどそのように見えるのかと理解して、今後に活かすことを必要とします。
私がかつて諸宗教間対話研究会に参加したときに、多くの仏教徒と交わりを持つことができました。交流を持ってみると、私の中にあった異教との隔てが見事に無くなりました。自分の中でも驚くほどの心の変化がありました。仏教徒が近くなったのです。ハンス・キュンクが仏教についてよく研究し、よく学んだ理由が分かったように思います。「対話」というのは、大切です。
まず、私のような人間からすると「仏教」というのは、創価学会から何からみんな同じに見えます。しかし、少しでもちゃんと理解しようとすれば、まるで違ったものが見えてきます。でも、その手前で止まったら、その「まるで違ったもの」が見えてこずに、今までの偏見「仏教」をもって仏教を語っていたことでしょう。
結婚詐欺師の「愛してる」と恋人の「愛してる」は、同じように見えます。しかし、見えてきたらまるで反対の言葉であることがわかります。「同じようなものだ」とは決して言えないのです。
対話はそれに気づかされます。
ロドリゲスさん
<「同じようなものだ」とは決して言えない>というのは、統一協会についてもそうなのだと思うようになりました。
かつて、私の中での統一協会の信者はみな「同じようなもの」でした。
でも、一人の人との出会いでまるで変わりました。
統一協会を脱会された人だったのですが、その人が統一協会の中の人間模様をよく教えてくれました。
マインドコントロールされて「同じようなもの」でしかないように見えて、ちゃんと一人一人の顔があることがわかりました。
ですから、私は統一協会の人であっても、その人がいかなる信仰を持っているかに関心があります。そして、統一協会が何と命令し、霊的アダムが何と指導していようとも、よく目を凝らして見れば一人一人のとらえ方や考え方はまるで違うのだろうと思うようになりました。だから対話したいです。対話とは人格と人格の触れ合いです。もし、この先、私がカルト被害者の会で統一協会問題を扱うとしたら、それをしたいです。
>例えば、イエスの人格云々についても、「人格が人格が」と繰り返すばかりで、イエスの人格が「どうだから」信仰するのか、という説明が先のコメントまで全く無かった訳です。
キリスト教においては、ここが最も重要なんです。
私は福音主義神学の土壌で育ったのですが、その福音主義神学というのは聖書66巻をそのまま信じましょう!といった感じのものです。
20年ほど前は、どの神学校でも福音主義であれば、ヘンリー・シーセンの『組織神学』という分厚いテキストを用いていました。それもあって、私は牧師さんから神学の手ほどきを受けた時にもシーセンの『組織神学』が使われました。
一つ一つのテーマを学びレポートを提出していったのですが、なぜかキリスト論が一番最後に回されました。神論、救済論、終末論などなどがあって、最後にキリスト論です。
キリスト論というのは、まさに「イエスの人格」を扱うところです。
それまで、それなりに組織神学を面白がって学んでいましたが、最後、キリスト論を見て初めてこのテキストに血が通ったというか、温かい血が通い始めて命が漲ったような感じになりました。
神学はさまざまなことをテーマとし、研究され、語られます。しかし、キリスト論に至って、それまで学んできたことのすべてが覆され、再考され、刷新されました。
それほどに、キリスト論は大切なのです。
シーセンの『組織神学』が今、教会の本棚に置かれて手元にないので、また次回にでも紹介します。
>いえ、ロドリゲスさんのように「宗教」もカルトも同じように見える人には、宗教にあることが「カルト信者と大差ない」と思えても無理はないです。
一方ではカルトを「反社会的」と定義しながらも、ロドリゲス氏はむしろカルト信者を穏健な宗教者と同格化したいが為の詭弁を繰り返しているにすぎないと思います。
>なるほど。
>そのような意味であれば、おっしゃるとおりです。
ようやくお分かりいただけましたか。
私が「カルト信者と大差ない」と書いたのは、まさにその意味においてです。
だから「それに関しては」と明示していたのですが、スルーしてしまったようですね。
>私が真光の信者の青年に、「何で信じているの?」と聞くと、その青年は「病気だったのに治りました!」とはっきりと告白しています。
>私はそのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
オリゲネスさんはご存知ないかもしれませんが、真光も金銭収奪や医療否定などかなり被害報告の多く、カルトに分類されることも多い団体です。
「カルト信者と大差ない」どころか、その青年もカルト信者の一人なのです。
>ロドリゲスさんはカルトの定義を明確にされたようなので、その定義においてちゃんと区別されていることがある程度相手に分かるような程の論述をお願いします。
「反社会的な宗教団体」がカルトであると定義しているのですから当然「反社会的でない宗教団体」がカルトでない宗教ということになります。
>はい、ロドリゲスさんの定義で大丈夫です。
了解です。
>コメントが長かったからスルーしてしまったようですね。
スルーしていませんよ。「マーガレット・シンガーの著作など引き合いに出すまでも無く」と答えているのですから。
そして、オリゲネスさんはそのシンガーの定義に則るのかどうかを書いておられないので、確認のために「反社会的な宗教団体」という定義で良いのか何度もお尋ねしたのですが、
明確な返答が全くなかったのです。
>私自身もまた自分がどこまで見えていて見えていないかに気づかされます。
>信仰を持たない人々が見ている視点が、私にはあまりよく分からなくなっていますからね。
そういうところも、カルト信者がカルト教団の見ている視点でしかものを考えられず、世間一般の人々の視点が分からなくなっているのと大差無いと思いますよ。
カルトと一緒にされてオリゲネスさんが悔しい気持ちは良く分かりますけどね。
>統一協会を脱会された人だったのですが、その人が統一協会の中の人間模様をよく教えてくれました。
>マインドコントロールされて「同じようなもの」でしかないように見えて、ちゃんと一人一人の顔があることがわかりました。
当たり前ですね。
スルーされているようなのでもう一度書きますが、私はカルトと伝統的宗教が同じであるなどとは最初から言っておりません。
しかし、カルトと伝統宗教は必ずしも排反であるとも限りませんね。
例えば、キリスト教が無実の人々を魔女と呼び火炙りにして殺してきたという行為だって見方によっては十分に反社会的行為です。
熱心な信仰を持ったことが裏目に出て、救いのためと信じて教団の上司信者の指示に従い、結果として反社会的な行為を行ってしまう、それがカルトです。
反社会的な行為を行わない団体と比べれば、行動の面ではもちろん違いがあります。
しかし、信者個人の内面において神仏の働きを感じ、神仏を信ずる信仰心の部分においては、必ずしも違わないのです。
その証拠に、オリゲネスさんの信仰告白は、まさに異教や新宗教やカルトにおいても見られる類のものです。
ですが、それぞれの宗教の信者は、自分の信ずる教団こそが正しく本物で、他とは違うと考えているのです。
これもスルーされていますが、オリゲネスさんの話を客観的に表現すれば、昔の書物に神が人となったと書かれていて、
精神的疲労・緊張の高まっている時に体が温かくなるなどの宗教体験をし、結果、その書物のトンデモな内容までをも信じたということになります。
異論ありますか?
>オリゲネスさんはご存知ないかもしれませんが、真光も金銭収奪や医療否定などかなり被害報告の多く、カルトに分類されることも多い団体です。
知っていますよ。
真光の信者自身が「カルトです。」と自分で言っていましたからね。
カルトと分かっていながらも、信仰を続けているところに謎が深まるばかりです。
では、また夜にでも。
>信者個人の内面において神仏の働きを感じ、神仏を信ずる信仰心の部分においては、必ずしも違わないのです。
それでは、私はこの部分で「通ずる」とお考えください。
そして、私(信仰者)でしかできないアプローチもあるだろうと考えているのだし、また悲しいのですね。
>それぞれの宗教の信者は、自分の信ずる教団こそが正しく本物で、他とは違うと考えているのです。
それでいいのだし、「他とは違う」というのは正しいです。
そこから、さてどうするか?という新しい地平が必要なのでしょう。
他者との共通性もそうですが、他者とどれほどことなっているかを知り、そこから学ぶしかないです。
>これもスルーされていますが、オリゲネスさんの話を客観的に表現すれば、昔の書物に神が人となったと書かれていて、
精神的疲労・緊張の高まっている時に体が温かくなるなどの宗教体験をし、結果、その書物のトンデモな内容までをも信じたということになります
これについて、もっと深く行きましょう。
夜にでも。
ここが重要なんです。
なぜ、私がイエス・キリストかということです。
では。
>私が真光の信者の青年に、「何で信じているの?」と聞くと、その青年は「病気だったのに治りました!」とはっきりと告白しています。
>私はそのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
オリゲネスさんはその青年の内にある信仰心を認めますか?認めませんか?
>私が真光の信者の青年に、「何で信じているの?」と聞くと、その青年は「病気だったのに治りました!」とはっきりと告白しています。
>私はそのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
オリゲネスさんは、その青年の内に彼なりの信仰心があることを認めますか?認めませんか?
>私が真光の信者の青年に、「何で信じているの?」と聞くと、その青年は「病気だったのに治りました!」とはっきりと告白しています。
>私はそのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
統一教会や幸福の科学にもそうした信仰体験はいくらでもありますが、
オリゲネスさんはそれらを「カルト信者と大差ない」と言いますか?言いませんか?
>知っていますよ。
>真光の信者自身が「カルトです。」と自分で言っていましたからね。
>カルトと分かっていながらも、信仰を続けているところに謎が深まるばかりです。
オリゲネスさんもご存知のとおり、真光もカルトなのですから、
その真光の信者の青年も一人のカルト信者です。
つまり、オリゲネスさんの主張は、こういうことです。
「カルト信者を、カルト信者と大差ないとは言いません。」
これでお分かりいただけましたでしょうか?
>オリゲネスさんはその青年の内にある信仰心を認めますか?認めませんか?
なぜそのような質問をされるのでしょうか?
私は彼が信仰からそのように真光に入信しているがゆえに、病気が治ったことを告白してみせたことを伝えているのです。
>統一教会や幸福の科学にもそうした信仰体験はいくらでもありますが、
>オリゲネスさんはそれらを「カルト信者と大差ない」と言いますか?言いませんか?
言いませんよ。
繰り返しますが、そのような「宗教」にある出来事を「カルト信者と大差ない」とは言いません。
>オリゲネスさんもご存知のとおり、真光もカルトなのですから、その真光の信者の青年も一人のカルト信者です。
つまり、オリゲネスさんの主張は、こういうことです。
>「カルト信者を、カルト信者と大差ないとは言いません。」
>これでお分かりいただけましたでしょうか?
ここにロドリゲスさんの本質的な間違いがあるのです。
私はそのことを伝えているのに、まるで理解してくれませんね。
では、改めて伝えますので、よく読んでくださいませ。
宗教においては、礼拝や集会などがあります。
仏教では何と言うのかは知りませんが、祈祷会やらがあるのでしょう。
また、癒しや霊的体験などもあるでしょう。
それはもちろん、カルト団体にもあるでしょう。
しかし、それをもって「カルト信者と大差ない」とは言いませんね。
今日においては、カルトというのは「反社会的」「破壊的」という意味を持ちます。
そのとき、宗教一般に見られる宗教心や信心的な出来事や事柄に対して「カルト信者と大差ない」とは言いません。
キリスト教会の礼拝や仏教の祈祷会などを「カルト信者と大差ない」とはいいません。
それは、宗教一般に見られる宗教心や信心的な出来事や事柄に対して、いたずらにカルト現象を思わせるもので、あえて誤解を誘発させるものです。
カルトの定義は今日では「反社会的」「破壊的」でありマインドコントロールを用いるとします。
そうなるとロドリゲスさんは、宗教一般にある出来事、礼拝や祈祷会、癒しや奇蹟など「反社会的で破壊的な団体の信者と大差ない」と言っているのです。
癒しや奇蹟などのことに関してであれ、それは宗教一般にある出来事であり、信心の出来事や事柄に関わるものですから、それをもって「カルト信者と大差ない」というのは、故意に誤解を惹起させるための悪質な表現と疑われても仕方ありませんし、不適切です。
宗教一般にある出来事であり、信心の出来事や事柄に関わるものに対して、いたずらに「カルト」の装飾をしようとすることは、あきらかに宗教一般に対する悪質な偏見です。
これは宗教心とカルトをごっちゃにしているがゆえに起こることであろうと見なされるのが自然です。
ですから、私はカルトの定義を求めました。
これに対して、ロドリゲスさんはカルトの定義をしてくださったので、こんどはそれだけではなく、ちゃんと宗教心とカルトとの区別ができていることがある程度分かるくらいの記述にしてくださいと要請しているのです。
これは私の憶測ですけど、おそらく、宗教というものに対する偏見がロドリゲスさんにそのような表現をさせているのでしょう。
宗教心がカルト性を生みだす土壌になっていることは明らかですが、カルトは宗教という形のみならず、自己啓発セミナーという形をとっていたり、企業精神の中にもカルト性は見られます。ですから宗教一般に見られることを「カルト信者と大差ない」というのでは、カルトの本質を見誤るのです。
何がカルト性であるのかについて、ちゃんとした認識を持つならば、そのような場面で「カルト信者と大差ない」とは言わないのです。そう表現してしまうところに、ロドリゲスさんの間違いがあることを繰り返し言っているのです。
それから、ロドリゲスさん。
諸宗教間対話は非常に重要なものであるという認識が、多くの宗教者の間でも持たれるようになってきました。
私はカトリック教会の主導するエキュメニズム運動に対しては懐疑的だったのですが、意図せずその最先端に位置するようになってしまいました。
宗教には各々の真理があります。
自らの真理を最も高いものとすることを「差別化」といいますが、この「差別化」は悪い表現ではありません。
それぞれが自分の宗教にある真理を第一にすることは当然のことです。
では、一方が正しくて、一方が間違っているかといえば、そうではありません。
むしろ、お互いに「知らない」ことの方が多いのです。
むしろ、相手を「知る」ことの方が大切です。
そのとき、諸宗教の真理における真理性が問われることになり、「真理問題」がテーマとなるのです。
それぞれの宗教が持つ真理に排他性があることはイケナイことではありません。
幸福の科学のように「排他性」が無いことをウリにしているところもありますけど、それが正しいとも私には思えません。
むしろ、違いを尊重して学ぶとき、また違った在り方をいくらかでも持つことができる可能性の根拠としては十分に期待できます。
かつては、自分の生まれた国や地域の宗教の中で自らの価値観や世界観は育成されました。異教との接触は地理的には外延的な場での問題でした。自分の国や地域では異教ではなく「異端問題」が中心的となりやすかったと思います。
しかし、現代は違います。宗教者は諸宗教間対話を通して「真理問題」に向き合わねばなりません。この「真理問題」は現代における全く新しいテーマなのです。時代における命題です。
ただ、中世においてもその萌芽があります。アシジの聖フランシスコは十字軍の最中でイスラムのスルタンと非常に親しくなりました。また、キリスト教同士とはいえ東方教会との和解についてはトマス・アクィナスやボナヴェントゥラら動きました。これらの萌芽から対話の中で見えてくるものがあるでしょう。
時代が提起する問いに応答する義務がキリスト教会にはあります。
ですから、時代の提起する問いとして、私は今日のプロテスタント教会の問題を「教会のカルト化問題」としています。また同時に「教会のオカルト化問題」も取り上げていきたいです。
さらに、キリスト教会全体においては諸宗教間対話です。だから私はハンス・キュンクを見ています。
もう一つ、私の最も中心的な時代への取り組みがあって、私はそちらの方で主に活動しています。
キリスト教というのは、いろんな働きや活動があって結構面白いですよ。
>ですが、それぞれの宗教の信者は、自分の信ずる教団こそが正しく本物で、他とは違うと考えているのです。
先のコメントは、↑に対する応答です。
あのですね、分かっていないのはオリゲネスさんですよ。
まず、私は故意に誤解を惹起させようという意図は全くありません。それはオリゲネスさんの邪推に過ぎません。
>ちゃんと宗教心とカルトとの区別ができていることがある程度分かるくらいの記述にしてくださいと要請しているのです。
ですから、「カルト=反社会的宗教団体」と定義しておりますし、「宗教心=宗教を信ずる心」の意味であるとすれば、それらの意味するところは全く異なりますが、オリゲネスさんには理解できませんか?
世界には数多くの宗教団体があります。反社会的行為の多い宗教団体もあれば、少ない宗教団体もあります。反社会的行為の多い団体はカルトと呼ばれます。
いずれの宗教にも、礼拝や祈祷会、癒しや奇蹟などがあり、信者は神仏の働きを感じ、神仏を信じる信仰心を持っています。
「神の愛に包まれ体が温かくなり涙が溢れた」、「幻がはっきり見えた」、「言葉がはっきりと現れた」等々、こうした体験はキリスト教だけの専売特許ではありません。
このような体験は、キリスト教以外にもイスラム教や真光や統一教会や幸福の科学など様々な宗教の信者も持っているのです。
その意味で、オリゲネスさんが書いたような体験はカルトを含めた様々な宗教に所属する人々が持つ体験とも通じ、それは傍から見れば非常に良く似ており大差無いと申し上げたのです。
このことは既に何度も説明しているはずです。
一方、オリゲネスさんのコメントを読めば、明らかな矛盾が生じていることが分かります。
オリゲネスさんは、統一教会や幸福の科学の信者について「カルト信者と大差ない」とは言わないとおっしゃいました。
ところが、統一教会や幸福の科学は「カルト」と言われる宗教団体です。当然、それらの宗教団体の信者は「カルト信者」ということになります。
つまり、オリゲネスさんは「カルト信者はカルト信者と大差ないとは言わない」と主張していることになるのです。
明らかな矛盾です。
オリゲネスさんの底が見えてきましたので、この辺りにいたしましょうか。ありがとうございました。
結局、オリゲネスの信仰告白とやらも、昔の本(聖書)に書いてあったから信じた、祈ったら体が温かくなったり涙が出たから信じた、というだけの話なんだよね。
本人は認めたくないだろうが、やっぱりそれはカルト信者の信仰体験と大して変わらない。幸い、オリゲネスの入信した教団が反社会的行為を行わない穏健な団体だったってだけの話。
少しは話の分かるやつかと期待したが、この程度だったか。
ロドリゲスさん
>明らかな矛盾です。
いいえ、ロドリゲスさんが私の言葉を自分の都合でつなぎ合わせるから、矛盾に思えるだけです。文章とはそのようなロジックで遊ぶものではありません。
対話において、私たちは相手の言葉から、その人間の背景と思想、方向性を見て総合的に理解し、文意をくみとって解釈をしていくものです。
>ですから、「カルト=反社会的宗教団体」と定義しておりますし、「宗教心=宗教を信ずる心」の意味であるとすれば、それらの意味するところは全く異なりますが、オリゲネスさんには理解できませんか?
ぜひ、それを今後のコメントに活かしてください。
そうすれば、宗教一般にある出来事であり、信心の出来事や事柄について、「カルト信者と大差ない」というような表現をしなくなるでしょう。
たとえ今後、故意にロドリゲスさんがそのように表現しても、きっと自分の心にどことなくブレーキがかかるはずです。
私たちは見えていないから平気でごちゃまぜにしてしまいます。
私も「仏教」について見えていないので、結構いい加減なことを言ってきましたから。
でも、謙遜に学んでみると、そのときは正しいと思って言っていたことが、そのように言えなくなるのです。
「カルトと大差ないじゃん」と言えたロドリゲスさんが過去にあったとしても、少し留まって考える機会を持った後はかつてよりも認識を深め、より成長しているのです。
最後に、私はカルト信者のカルト性を問題にしますが、その宗教心は拾ってあげたいと思います。
>結局、オリゲネスの信仰告白とやらも、昔の本(聖書)に書いてあったから信じた、祈ったら体が温かくなったり涙が出たから信じた、というだけの話なんだよね。
違いますよ。
なぜ、私の主がキリスト・イエスであるか。
「書いてあったから信じた、というだけの話」というレベルでしか理解できないのは、色眼鏡で見ているからです。
宗教の深みを覗いてみるといいです。
浅いレベルの宗教もあるでしょうが、そのようなものは時代を越えていくことができません。
宗教の深みを知るのがいいです。
時代の洗礼を受けて受け継がれ、多くの人々に証しされ、体験され、熟考されてきた宗教は特にです。
なぜ、私の主がキリスト・イエスであるか。
ヨハネの福音書20章28節にトマスが「わが主。わが神。」と告白しています。
彼もまたイエスさまと出会ったということです。
これについては、またいつか、ご縁があったらですかね。
そうそう、私はもう少し見なければならないカルト問題におけるちょっとした疑問に、「被害者」という言葉と「マインドコントロール」という言葉があります。
とくにキリスト教会のカルト化の問題に限って言えば、確かに被害者といえば「被害者」かもしれないけれども、はたして全てが「被害者」なのだろうかという問題があります。
現在、裁判である牧師をパワハラで訴えている事件があります。彼はある牧師をパワハラだと訴えているのですが、彼はホームレスの人たちを教会から追い出しました。彼らが汚い格好をしているからです。そのホームレスの人たちの叫びはどこにあるのだろう。彼は自分の被害をパワハラとして訴えているけれども、ホームレスの人たちはあの時、涙ながらに訴えていました。その訴えは、ホームレスだからいいのか?
私はこのホームレスの人々の方が「被害者」に見えて仕方ありません。
彼の相方は権威的な牧師の権威を背景に自分の思うように事を進めてきた経緯があるのに、「自分はマインドコントロールされていた」と訴えています。
裁判での訴えの状況を見れば酷い話ですが、裁判では見えてこない人間の罪の働きがたくさんある。
キリスト教会のカルト化問題を見ると、組織内で出世をする欲望や栄誉をえたいと思う虚栄心、自己実現など。「被害者」「マインドコントロール」という言葉が隠れ蓑になって見えなくなっている部分が多いように思える。
もちろん、そうではなく、上手く誘導されて多額のお金を取られたという被害の方などもいて、あきらかに「被害者」なのですから、ちゃんと訴える必要はある。
しかし、どうも「被害者」「マインドコントロール」という言葉で、人間の罪の本質が隠されるケースも多い。
私も「被害者」といえば被害者といえなくもないけれども、自分では被害者だとはまるで思えない私にとって無くてはならない体験もしてきた。その体験なくしては、決して語れない言葉もある。
そんなこともあって、私にとってカルト化問題は、「被害者」「マインドコントロール」という問題も重要だけれども、多くは人間論に向き合っているような感じではある。
他所でやれ
>幸い、オリゲネスの入信した教団が反社会的行為を行わない穏健な団体だったってだけの話。
と、すると統一協会の信者はどうなるの?
かなり運が悪いってこと?
そーじゃないだろ、世間一般、多くは破壊的カルトを認識し接触を持たないと自ら選択しているわけだし。
統一信者だって破壊的カルトだと分かってたら入らねーよ
オリゲネスさん、私はロジックで遊んでいるのではありませんよ。そこが一番大事なところなんです。
相手の言葉から、その人間の背景と思想、方向性を見て総合的に理解し、文意をくみとって解釈をしていくことができれば、私の言っていることが分かるはずです。
むしろ、オリゲネスさんがその場その場の自分の都合で言葉を発しているために、そのようにいとも簡単に矛盾してしまうのですよ。
>ぜひ、それを今後のコメントに活かしてください。
私は最初からそのように考え、発言していますよ。
それを読んで、私が「カルト=宗教心」と言っていると思うのであれば、それはオリゲネスさんの読み方が間違っているのです。
統一教会や幸福の科学はカルトと言われる団体です。従って、それらに所属する信者はカルト信者と言われる存在です。
強盗や窃盗や暴行等の犯罪は、一般的には犯罪者本人の私利私欲によって起こるものです。
ところが、カルトの反社会的行為はちょっと違います。
教祖の真意はともかく、末端信者はその宗教を信じ教義に従い、神仏のため、人々の救済のためと信じて活動しています。
車に轢かれそうな人がいたら信号無視をしてでも助けるように、人々の救済が急務であると信ずる中で、常識的な社会のルールを超えた行為に及んでしまうのです。
そうした行為は、末端信者の個人的な私利私欲や悪意によるものとは少し違うのです。
もちろん中には、それとは別に私利私欲や悪意に流される人間もいるでしょうが、それは一般社会や伝統宗教の中でも同じことです。
キリスト教の中にも虚栄心で行動する人間はいますし、権威を利用してパワハラを行う牧師もいるのです。
キリスト教から見れば、仏像を拝む仏教は偶像崇拝にしか見えないかもしれませんが、仏教には仏教の信仰があるのです。
同じように、イスラム教にも信仰があり、新宗教にも信仰があります。
真光にも統一教会にも幸福の科学の信者にも信仰があり、宗教体験があるのです。
オリゲネスさんにお尋ねしますが、統一教会の末端信者は悪意を持って活動していると思いますか?
カルトと言われる幸福の科学の一般信者は、どのような反社会的行為を行っていますか?
カルト信者と言われる、真光や統一教会や幸福の科学の信者の心の中は、決して悪意や私利私欲に満ちているのではなく、彼らなりの信仰心があるのです。
むしろ、カルトの側が、信者の持つ信仰心を利用して、新たな信者の獲得や献金の獲得を行っているのです。
従って、私の言う「カルト信者」という言葉には、悪意は込められておりません。
彼らのほとんどは、カルトと知らずにカルトに入ってしまった、真面目で熱心な人間なのです。
真面目であるからこそ、カルトにハマってしまうのです。
信仰熱心であるからこそ、世間の感覚から見て常軌を逸した行動を起こしてしまうのです。
宗教によって具体的な教義内容、活動内容に差異があるのは当たり前ですが、神仏を感じ、神仏を信ずるという部分は多くの宗教に共通しています。
それは洋の東西、伝統宗教、新興宗教を問わずです。
具体的な事例に差異はありこそすれ、オリゲネスさんが語られたような宗教体験も、決してキリスト教の専売特許ではなく、キリスト教以外の宗教にも頻繁に見られるものなのです。
それは、真光の信者にも、統一教会の信者にも、幸福の科学の信者にもあるのです。オリゲネスさんに彼らの宗教体験を否定することができますか?できないと思いますよ。
カルトと言われる教団の信者においても、彼らなりの大切な宗教体験があるのです。
私が「大差ない」と申し上げたのは、その意味においてです。ですから、私はわざわざ「それに関しては」と前置きをしたのですが、スルーされてしまったようですね。
キリスト教の宗教体験だけが本物で、他は偽物だなどと断言することができるでしょうか?
そう断言してしまうキリスト教徒もいるでしょうが、傍から見ればそう断言することのほうがおかしいのです。
オリゲネスさんも認めているように、カルトの信者にも彼らなりの信仰心があるのですよ。
むしろ、彼らに信仰心がなければ、誰が好き好んでマイクロバスに雑魚寝で泊まり込んで珍味売りを繰り返すでしょうか?
真夏の炎天下の中、極寒の真冬の夜空の下、行き交う人々の白い目にさらされながら、活動を続けるでしょうか?
カルト信者も、伝統宗教の信者も、神仏を感じ、神仏を信じる、信仰心を持っているという点は同じなのです。
また、カルトと伝統宗教が必ずしも排反するものでもありません。キリスト教の中にもカルト化する教会があります。
真光の青年が持つ信仰と「大差ある」信仰を持つと自負するオリゲネスさんは、さぞかし素晴らしい人格者なのでしょうね。
もちろん、その行動においても批難されるところは何一つないのでしょう。立派!
>なぜ、私の主がキリスト・イエスであるか。
>ヨハネの福音書20章28節にトマスが「わが主。わが神。」と告白しています。
>彼もまたイエスさまと出会ったということです。
ですから、それは、
統一信者が、光言社の発行する本の20章28節にキムが「わが真のお父様。」と告白していて、キムもまた文鮮明と出会ったということだから、私の主は文鮮明である、と言っているのと構造的に同じことなのです。
まだ、分かりませんか?
幸福信者が、幸福の科学出版の本の20章28節で田中さんが「わが主、エルカンターレ様。」と告白しているから、私の主は大川隆法である、というのも同じことです。
つまり、キリスト教の枠組みで、キリスト教の本を読めば、キリスト教が正しいという結論に至る。当たり前のことなのです。
それを理由に持ってきている時点で、オリゲネスさんはキリスト教の中でしか通用しないトートロジーに陥っていることを露呈しているに過ぎないのですよ。
そのあたりもカルト信者と大差ありませんね。
>オリゲネスさんにお尋ねしますが、統一教会の末端信者は悪意を持って活動していると思いますか?
本人に悪意がなければ何をしてもよいのかなー?
>むしろ、カルトの側が、信者の持つ信仰心を利用して、新たな信者の獲得や献金の獲得を行っているのです。
そこまで理解してるならそのカルト信者の信仰心自体が果たして信仰を言えるものか正す事が先決
それもせず>そのあたりもカルト信者と大差ありませんね。などとほざいてもだれも相手にしないだろうよ
悪意がなければ何をしても良いなんて誰も言ってないと思う。
ロドリゲスさん
>従って、私の言う「カルト信者」という言葉には、悪意は込められておりません。
彼らのほとんどは、カルトと知らずにカルトに入ってしまった、真面目で熱心な人間なのです。
>真面目であるからこそ、カルトにハマってしまうのです。
>信仰熱心であるからこそ、世間の感覚から見て常軌を逸した行動を起こしてしまうのです。
そこまで理解されているというのはいい感じですね。
対話が深まると認識も刷新されます。
さて、「カルト」という言葉には「破壊的」という意味が含まれていますから、「カルト信者と大差ない」というのは、やはり不適切です。
それでは「宗教心」と「カルト性」の区別がなくなっていまうからです。
「破壊的団体の人間と大差ない」という意味を含むことに容易につながります。
カルトであれ宗教であれば、そこに宗教心というものがあります。
ですから、カルト信者もまた宗教心を認めることが大切なのであって、宗教心や信仰の事柄や出来事を「カルト信者と大差ない」ではダメなのです。
不適切ということです。
統一協会でも礼拝をしています。
それをもって、「それに関してキリスト教はカルトと大差ない。」といったらどうでしょうか?
やはり適切ではないのです。
そこで、カルトだって礼拝をしているから「カルトと大差ないじゃないか!」といったらやはりオカシイのです。
>真光の青年が持つ信仰と「大差ある」信仰を持つと自負するオリゲネスさんは、さぞかし素晴らしい人格者なのでしょうね。
>もちろん、その行動においても批難されるところは何一つないのでしょう。立派!
やれやれ。
「大差ない」という<言葉>を否定しているからといって、その反対語をもって「さぞかし素晴らしい人格者なのでしょう」とやってしまうところにあまり意味は無いと思いますよ(^-^)
私が反対しているのは、「大差があって、私は素晴らしい!」などということを意図していないことは普通人の判断から容易に理解できます。
私が「大差ない」を批判しているのは、「不適切」だからです。
言葉にはその表現が適切な場合とそうではない場合があります。
一般に宗教心や信仰的な出来事、たとえば礼拝や癒しの体験などに対して、「カルト信者と変わらない」は適切ではないのです。
今日、キリスト教原理主義は非常に嫌われるようになりましたが、彼らは福音主義の最右派に位置します。しかし、穏健な福音主義は彼らのような排他主義や分離主義、および独善主義を嫌います。ところが、穏健な福音主義者たちをつかまえて「聖書を信じていることに関して、原理主義者と大差ない」といえば、やはり適切ではないのです。
「原理主義者も聖書を信じている」というのは適切ですが、「聖書を信じていることに関して、原理主義者と大差ない」は適切ではないのです。
不適切に用いれば、それはやはり間違っているのです。
特に「カルト」という言葉のように「反社会的」「破壊的」という意味があり、インパクトのある言葉であるとき、用い方に気を付けねばなりません。
ですから「宗教心」と「カルト」の区別を明確にするように要請しているのです。
「大差ない」が違うなら「大差ある」のか!
というロジックですが、それは言葉に遊ばれています。
結構言葉に遊ばれてしまうことが神学論争にも多いものです。
「右」といえば「左」が想定されてしまいます。
「上」といえば「下」が想定されます。
「救われた者」といえば「救われない者」が想定されがちです。
西洋の形式論理学的にはAは「非Aにあらず」となりますが、しかし非Aが想定されない言葉もあるのです。
「私のフィアンセは最高の人だ」というとき、それは「私のフィアンセでない人は最高ではない」とか「世界には他にこの人以上に素晴らしい人はいない。」を想定してはいないのです。
「私のフィアンセは最高の人だ」と聞く時、誰も「オレのフィアンセの方が最高だ!」という人はいません。むしろ温かい目で「良かったね!」と喜んであげます。
言葉というのは、ロドリゲスさんのようにロジックで遊ぶものではないのです。
宗教心や信仰における事柄や出来事もまた、本来、温かく見守るのがよいのかもしれませんね。ところが、「カルト」は「宗教心」や「信仰」を利用してしまいます。そこには「破壊的」という意味が含まれていますが、それは社会に対してだけではなく、その本人に対しても「破壊的」である面があります。ですから、宗教心や信仰的な事柄や出来事に対して「カルト信者と大差ない」は不適切なのです。それは「カルト」という言葉がもう特殊性によるものです。
「宗教心」や「信仰」の本来の在り方すらも破壊する危険のある「カルト」という表現を宗教心や信仰的な事柄や出来事に関する表現として用いることは、やはり適切ではないのです。
それをあえて、そのように表現してしまうところには、別の目的と意図があると疑われても、疑うに相当の合理性があります。
>悪意がなければ何をしても良いなんて誰も言ってないと思う。
http://www.stopreikan.com/jireisyu/syohin_higai.htm
では、これだけの被害がありながらどういうつもりで続けているのでしょうか?
信者はそれが被害だと思っていない。
>そこまで理解されているというのはいい感じですね。
>対話が深まると認識も刷新されます。
私は最初からこうした理解なのですが、オリゲネスさんが私のことをあれこれと偏見で決め付けていたのですよ。
>そこで、カルトだって礼拝をしているから「カルトと大差ないじゃないか!」といったらやはりオカシイのです。
ですから、何度も言っていますが、私はキリスト教とカルトが大差ないと言っているのではありません。
反社会的行為の多い団体から少ない団体までいろいろな宗教団体があると申しております。
キリスト教でもイスラム教でも真光でも統一教会でも幸福の科学でも、信者は彼らなりの信仰を持っているのです。
そして彼らは教義を学び、経典を読み、祈り、神仏の働きを感じるという過程を経て信仰を持つに至っているのです。
オリゲネスさんの書かれた体験談は、カルトにもごく普通に見られるものであり、決してキリスト教の専売特許ではないということです。
その意味において、カルト信者の体験談と大差ないと申し上げたのです。
>「大差ない」という<言葉>を否定しているからといって、その反対語をもって「さぞかし素晴らしい人格者なのでしょう」とやってしまうところにあまり意味は無いと思いますよ(^-^)
>私が反対しているのは、「大差があって、私は素晴らしい!」などということを意図していないことは普通人の判断から容易に理解できます。
皮肉だったのですが、マジレスお疲れ様です(笑)
>ですから「宗教心」と「カルト」の区別を明確にするように要請しているのです。
何度も言ってます。「宗教心=宗教を信ずる心」であり「カルト=反社会的宗教団体」という定義で話しています。
当然、「宗教心≠カルト」であり、カルトにおいても個々の信者は彼らなりの宗教心を持っているということです。
>「大差ない」が違うなら「大差ある」のか!
>というロジックですが、それは言葉に遊ばれています。
>「右」といえば「左」が想定されてしまいます。
言葉に遊ばれているのはオリゲネスさんですよ。
「右」ではないから「左」だとは私は考えません。「真ん中」だってあります。
「大差無い」というのは「大きな差が無い」という意味です。小さな差はあるかもしれません。
オリゲネスさんは「大差無い」を頑なに否定されておりますので、それは「大差ある」ということになります。
しかし、オリゲネスさんの体験談を何度読み返しても、真光や幸福の科学等の信者の体験談とどこが「大差ある」のだろうかと思います。
オリゲネスさん自身は「他の宗教とは違う、特別な体験」だと思い込んでいるのでしょうが、傍から見れば必ずしもそうではないということです。
>そこには「破壊的」という意味が含まれていますが、それは社会に対してだけではなく、その本人に対しても「破壊的」である面があります。
何度も言ってますが、私は「カルト=反社会的宗教団体」と定義して話しています。「破壊的」という意味は必ずしもこめておりません。
しかし、いずれにせよ同じことです。
真光や統一教会や幸福の科学はカルトと言われる団体であり、その信者たちはカルト信者と言われる存在です。
カルト信者という言葉は当然、彼らを指しています。
オリゲネスさんは、真光のや統一教会や幸福の科学の信者の宗教心がカルト信者の宗教心と大差ないというのを否定されました。
違うのです。
彼らは宗教心を持っているが、それが不幸にもカルト団体であり、彼らは意図せず、自覚なく、カルト信者なのです。
現に、統一教会や幸福の科学の信者は、このサイトにおいても「カルト信者」と呼ばれているのです。
そういう意味で、私は「カルト信者」という言葉を用いたのです。彼らもそう呼ばれるのは不本意でしょう。ですがそれが現実なのです。
彼らも信仰心を持ち、宗教体験を持っています。その点において、オリゲネスさんもまた、大差はないという事実を受け入れたくないだけのことなのです。
>私は最初からこうした理解なのですが、オリゲネスさんが私のことをあれこれと偏見で決め付けていたのですよ。
おそらく、ロドリゲスさんの内に最初からあったものでしょう。
それが強く引き出されたともいえます。
私はそれを「純化される」といっていますが、人と人が何らかの形で本当のところをあれこれと語りあっていくと、理解が深まります。
別に私は偏見をもっていたのではありません。
どちらかというと、私は個人の嗜好からか性善説よりで、どんな人間でも本当のところを語り合うならば、思わされるもの、気づかされるものがあると考えています。
ですから、私は統一協会の人にもそれを考えています。
そのとき、彼らを監禁説得するのではダメですからね、反対牧師といわれる人たちに反対しています。
私がたくさん書いているのは、ロドリゲスさんから学んでいるからです。私はなぜキュンクが「真理問題」など一生懸命にやっているのか、分かっているようでいて、分かっていませんでした。ロドリゲスさんとの対話で、やはり必要なのだと心から思えました。
>皮肉だったのですが、マジレスお疲れ様です(笑)
私はロドリゲスさんを皮肉ったことはありませんよ(^-^)
>「右」ではないから「左」だとは私は考えません。「真ん中」だってあります。
いえいえ、「右」といえば「左」が想定されます。
「右」と「左」がでたから、ロドリゲスさんは「真ん中」を想定することになったのです。
つまり、対話もそうなんです。
自分の限界の外の世界(ここでは人格)と触れることで初めて自分の世界の枠組みを認識できます。ウィトゲンシュタインという人が言っていることですが・・・
ああ、食事の時間です。
>信者はそれが被害だと思っていない。
というと?
被害をかけていないという意識で悪質な行為を続けているなら、余計悪質ですね。
果たしてそれが信仰心と言えるのか
社会的に精査されるのは当然の結果でしょう。
>オリゲネスさん自身は「他の宗教とは違う、特別な体験」だと思い込んでいるのでしょうが、傍から見れば必ずしもそうではないということです。
信仰がない人から見て、「<他宗教>と大差ない」であれば、傍から見るとそうなのかなあで終わります。
しかし、「カルト信者と大差ない」では本質が歪みます。
「カルト」というのは宗教心や信仰を利用する「反社会的」で「破壊的な」団体であるからです。
つまり、その本人の宗教心や信仰をも「破壊」するような「カルト」という表現を、一般に宗教心や信仰の事柄や出来事を表すのに用いるべきではないのです。
これは「カルト」という言葉の持つ特殊性にあります。
ただ、カルト信者においても、ちゃんと彼らの内の信仰の輝きを拾ってあげたいと私は考えています。
しかし、宗教心や信仰にあるものがカルトの「破壊的」な力によって利用され変質されてしまいます。たとえば、宗教心や信仰にあるものが「霊感商法」などを正当化させたりしています。
ですから、一般に宗教心や信仰にある事柄や出来事を「カルト信者と大差ない」と表現することは不適切なのです。
もちろん、「破壊」の危機にさらされているとはいえ、私のように真光の青年の宗教心や信仰における事柄や出来事(癒し)に対して、ちゃんと拾ってあげたいと思います。それは「カルト性」ではなく、「宗教心」を拾うのでう。
「カルト性」は「宗教心」を蝕むものですから、宗教心からのことを「カルト」で表現するのとは適切ではないのです。
言葉には適切な言葉と不適切な言葉があって、適切に用いないとダメです。
「宗教心」は「カルト性」に利用されるものであり、また「宗教心」は「カルト性」によって変質され破壊されるものであれば、宗教心を表現するときに「カルト信者と大差ない」では明らかにダメなのです。
>被害をかけていないという意識で悪質な行為>を続けているなら、余計悪質ですね。
そうなのです。
「カルト性」は「宗教心」を利用し、変質し、破壊して行きます。
ですから、統一協会にまでなると人々は「あれは宗教団体ではない!カルト団体だ!!」という批判がでるようになります。
幸福の科学もまた、そのカルト性が「宗教心」を利用し、変質し、破壊していると明らかに認識されたら、「あれは宗教団体ではない!宗教を利用したカルト団体だ!!」という批判が飛び出すでしょう。
>果たしてそれが信仰心と言えるのか
>社会的に精査されるのは当然の結果でしょう。
カルト性が侵食した段階でそれを「信仰心」と言えるかという問題です。
「利用された信仰心」、「歪められた信仰心」「変質した信仰心」などが、信仰の名に値するかという問題がカルト問題にあります。
>おそらく、ロドリゲスさんの内に最初からあったものでしょう。
>それが強く引き出されたともいえます。
>私はそれを「純化される」といっていますが、人と人が何らかの形で本当のところをあれこれと語りあっていくと、理解が深まります。
>いえいえ、「右」といえば「左」が想定されます。
>「右」と「左」がでたから、ロドリゲスさんは「真ん中」を想定することになったのです。
私もいろいろな人と語り合って理解が深まったり気づきがあったりすることはたくさんありますよ。
ただ、カルト=宗教心などとは最初から考えていませんし言ってもおらず、オリゲネスさんの誤解に過ぎません。
また、世の中は右と左、白と黒のような二元的なものばかりではないことも当たり前で、オリゲネスさんとの会話で気づいたとかいう話でもありませんでしたよ。
オリゲネスさんは、自分のおかげだと言いたいのかもしれませんが、残念ながらそうではありませんでした。
これまでのオリゲネスさんとの対話においては特に目新しいと感じる内容はなく、間違った解釈をされるばかりで、
説明しても理解していただけず、十二分にもどかしさとアホらしさを感じさせていただきました。
>別に私は偏見をもっていたのではありません。
>どちらかというと、私は個人の嗜好からか性善説より
いやいや、よく言いますね。私に対しては否定的評価と誤解のオンパレードだったんですけど(笑)
>これは「カルト」という言葉の持つ特殊性にあります。
ですから、私は「カルト=反社会的な宗教団体」と明確に定義してお話しているのです。
カルト信者だって、自分がカルト信者であるつもりは全くないのが普通であり、カルト信者であるなどと言われても到底受け入れないのが普通ですよ。
その真光の青年のように自分がカルト信者だと言うほうが珍しいですし、その発言の真意が何であるかもオリゲネスさんは理解していないのではないでしょうか。
>真光の青年の宗教心や信仰における事柄や出来事(癒し)に対して、ちゃんと拾ってあげたいと思います。それは「カルト性」ではなく、「宗教心」を拾うのでう。
そのように、真光の信者においても、信仰心や宗教体験があるということです。信者の心が何から何まで反社会性、破壊性に満ち溢れているわけではないのです。
その意味で、オリゲネスさんが語られたような宗教体験は、真光や統一教会や幸福の科学の信者もまた、経験しているものであるということです。
私が申し上げたのはそういうことです。
彼らは自分たちの教団がカルトであるとは思っておりませんし、自分たちがカルト信者であるとは思っておりません。
しかし、世間はそうは見ていないのです。世間からはカルトとみなされ、カルト信者とみなされているのです。
オリゲネスさんが私の発言の真意を適切に汲み取っていれば、そのような誤解はしなかったでしょうし、これほどまでにまどろっこしい説明をしなくて済んだのです。
>言葉には適切な言葉と不適切な言葉があって、適切に用いないとダメです。
その通りです。
結局、カルトという言葉のイメージに流されて、適切に判断できなくなったのがオリゲネスさんです。
だからこそ、オリゲネスさんは、「カルト信者はカルト信者と大差ないとは言えない」などという自己矛盾に陥ってしまったのですよ。
適切に言葉を用いればそのような自己矛盾には陥らないはずです。
素直になれないオリゲネスさんも心の中では私の言っていることが分かってきたようですから、これについてはこの辺にしておきましょうか。(^ー^)
あとは、これ、スルーしちゃってるようですが、オリゲネスさんは意味を理解できましたでしょうか?
↓
>ヨハネの福音書20章28節にトマスが「わが主。わが神。」と告白しています。
>彼もまたイエスさまと出会ったということです。
それは、
統一信者が、光言社の発行する本の20章28節にキムが「わが真のお父様。」と告白していて、キムもまた文鮮明と出会ったということだから、私の主は文鮮明である、と言っているのと構造的に同じことなのです。
幸福信者が、幸福の科学出版の本の20章28節で田中さんが「わが主、エルカンターレ様。」と告白しているから、私の主は大川隆法である、というのも同じことです。
つまり、キリスト教の枠組みで、キリスト教の本を読めば、キリスト教が正しいという結論に至る。当たり前のことなのです。
それを信じる理由として理由に持ってこられても、傍から見ればオリゲネスさんがキリスト教の中でしか通用しないトートロジーに陥っていることを露呈しているに過ぎないのです。
最後に、
オリゲネスさんがイエス・キリストを信じる宗教心に溢れたクリスチャンであるという自負とプライドは十二分に伝わってきましたが、
肝心のイエス様そのものは感じられませんでした。
>しかし、信者個人の内面において神仏の働きを感じ、神仏を信ずる信仰心の部分においては、必ずしも違わないのです。
>その意味で、オリゲネスさんが書いたような体験はカルトを含めた様々な宗教に所属する人々が持つ体験とも通じ、それは傍から見れば非常に良く似ており大差無いと申し上げたのです。
>教祖の真意はともかく、末端信者はその宗教を信じ教義に従い、神仏のため、人々の救済のためと信じて活動しています。
>従って、私の言う「カルト信者」という言葉には、悪意は込められておりません。
可哀そうに。見境ないねw
よほど統一協会を擁護したいのだろうが、人格破壊による被害実態からも明らかだか詭弁にすぎないよ
ロドリゲスさん、
スルーした部分は、今回ばかりはワザとスルーしました。
なぜ、「わが主。わが神が」が主イエスかというところです。
その内に、お伝えします。
おそらくそれを伝えたら、これで終わりになってしまうように思えるので。
>オリゲネスさんがイエス・キリストを信じる宗教心に溢れたクリスチャンであるという自負とプライドは十二分に伝わってきましたが、
>肝心のイエス様そのものは感じられませんでした。
私は反対に、ロドリゲスさんに誠意を感じました。
よくぞ、私のような者にお付き合いくださったと。
私にとって心に残る特別な人となりました。
匿名で横槍を入れていればいいような状況で、ちゃんと向き合ってくださいましたからね。
私の伝えたい事を最後まで理解されていないことは分かりますが、結果的にそうだろうと最初から予想していました。
というのも、私はそれでいいと思っているからです。
私の所属している神学研究所では、諸宗教間対話をかつてよくやっていました。
互いに「正しい」と思っていることがあるので、一致することはできないのですが、しかし「対話」することができ、相手を少しばかり理解し、そのことで学ぶものがあるのです。
互いに理解という面では一致できなくても、笑って一緒に食事をして語り合って、それができたとき本当の「一致」というのは、もしかしたら他のところにあるのかなあと思いました。
だからそれぞれの「正しい」があっていい。
そこでは一致できなくても、それぞれの「正しい」の位置にあって、もっと大切な「一致」を得ることができます。
私はロドリゲスさんは信頼しうる人だと思えました。
それに、カルト問題についてはやはり思うところがあって、よく考えていらっしゃる方だということも分かりました。
ロドリゲスさんの「カルト信者とは大差ない」は最後まで意見を異にしますが、それとは別にしてロドリゲスさんと語り合えたことをありがたく思っています。
数々のご無礼申し訳ありませんでした。
また私のコメントで何か思うところがあったら「ロドリゲス」のハンドルネームでコメントください。
今回ほどの大変なことにはならないと思いますので(^-^)
ありがとうございました。
オリゲネスさん
同じくです。
数々のご無礼申し訳ありませんでした。
ありがとうございました。
統一教会系団体が靖国神社で慰霊祭
http://share.system.vc/2/239898
安倍首相と統一にパイプあるのは知ってたけど、まさか靖国と統一教会が癒着してたとは。
どおりで安倍首相が靖国に行くわけだ。
今までずっと朝鮮総連本部ビルと靖国が隣同士で建ってたのに両者が癒着してるなんて
全く思いつかなかった。そして、恐ろしい可能性に思い至った。
2012年の靖国神門放火事件。あれって朝鮮総連と靖国が組んだ自作自演?
それは国外逃亡したの犯人の日本引き渡しが行われなかった背景と関係してる?
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